…またも妻と口論してしまった。
もう、20回目くらいだ。
なぜ、互いに余裕が無いと判断した時点でやめた方が無難だと理解できないのか。いや、すでに判断すらできないものか。
本当に男女ってものは…
余裕があっても、逃げずに、言いたいことぶつけ合うことは悪いことでは決して無いと思うが…
子どもの手前、非常に後味と罰が悪い。
娘に泣かれると、胸が捻れそうになる。
妻も、泣くと子どものようになる。
マンガのように。
冷静になるはいいが、完全私の敗北に終わるのは至極当然…
女性の涙は本当に強い。
息子の悔し涙などもかわいいが。
まぁ、こういう…
モヤモヤを抱えて生きていることは、ずっと良く無いことだと思って生きてきた。
何もいらない、何があっても平然として生きていけることが幸せなのかもしれない、と。
でもまだまだ、そんな器じゃない。
というか、器があるだけ贅沢じゃないか。
戦争紛争災害疫病天変地異…細胞から地球レベルで何が起こる変わらない現代世の中、どんな仙人だとて生きていればその衝撃に触れてブレることは不可避であろう。
神にはなれないし
三行半の
紙にはするわけにはいかない
と、そんなスタンスでいくしかない。
なんでもゼロにリセットできる境地が幸せ…とはまだまだ思えない境地なのだ。
それでいいのだ。
唐突に。
〜1998年4月
晴れて近隣市の公立進学校に入学した時代の私から、大人の快談を辿っていくとしよう。
大袈裟ではなく、卒業生は所謂MARCHや日東駒専など名だたる大学に輩出される程のレベル高だった。
授業の進み具合も早くて、高3などほとんど自習やA.O対策的な選択授業だった気がする。まぁ、私は自動車免許の勉強をしていたのだが…
3年間ロックを聴いて軽音楽部でバンドをやることしか頭になかった私は、勉強の要領は掴んでおり、苦手科目や実技教科など赤点スレスレのラインでやり過ごしていた。
私は最近までこの25年間、高校時代というものを悲観的に位置付けていた。
しかし今では感謝の域になりつつある。
特に一年生の時。
私を空気化し、一日中誰とも会話しないくらいの浮き雲の高さにまで翼を授けてくれた39名のクラスメイトにサンキューだ。
…いや、謝りたいというのが本音か。
所謂カーストが3段階はあった。
陽キャのなかでも少し不良っぽい奴、髪型眉毛バッチリな奴、スポーツ推薦な奴…
だりーだりーと休み時間にボヤいてはウィットとはほど遠い、当時でいうホリケンなど前衛的ギャグを内輪でかまし、その笑い声がクラスに華を添えていた。
あとはイマイチ垢抜けない層と
ゲームボーイ持ち込んで、ポケモンだのドラクエだのやってたりインテリら。
反町GTOが当時ドラマやってたが、彼らは菊地や吉川みたいにスポットは全く当たらなかった。
陽キャ君たちの中にはバンド経験者もいたが、そいつは軽音部には属しなかった。
最初「なんだ、こいつバンドはやる気ねぇのか」と思ってしまい、折角LUNA SEAなど共通の話題もあったのに、勝手に私の方から避けていた部分もあった。
進学校だが、やはり「マジメなポーズするのはダサい」という意識は強く、バンドブームと軽音部のチャラついたイメージもありミーハーな連中も含め新入部員数は100人…はいたかな。いや本当。
広めの視聴覚室で自己紹介がなされ、やはり他クラスの不良っぽい陽キャは、ニヤニヤとフザケて
「好きなバンドはずぅとるび」と答えたりした。
頭のキレるキレた先輩は流さずにマジトーンで
「じゃあ君さ、ずぅとるびのなんの曲が好きなの?」と質問し、凍りついたその瞬間の空気たるや、さっそく大量の帰宅部員候補の幽霊化を促進させていた。
先の同クラスの経験者の彼は、きっと、バンドが好きだから、ふざけたノリではやりたくないから。だからといって私のように真面目にもやりたく無いから、軽音には入らなかった、という事だったのかもしれない。
私は彼と、ただ明るい奴だからという理由だけじゃなくて、本当は仲良くなりたいのに、拒絶されてるような気がして、
「あいつ、なんちゃってバンドマンだから」と部内で言いふらし、私がクラスでボッチだという事の言い訳にもしていた。
なんでも楽しく、要領よくやれる奴らだったから、実際私のような奴を見てて痛かっただろうし、つるんだとて彼の描く面白い生活は一緒に送れないと判断されたんだろうな。
なまじ私は英語の成績が抜群に優秀であり、それが彼の敬愛するLUNA SEAのベーシストJ氏のエピソードと被って映っていたとしたら、私の事はさぞかしイケスカなかったろう。
他のクラスメイトなどは
「こいつといれば良いことありそう」と、損得感情で金魚のフンのようにくっついたり、媚びる奴も多かった。
更に「こいつ(私)といても良いこと無さそうだな」と手に取るように分かる態度を出す奴や明らかカーストを意識してる方(正直、そういうのは女子が多かった)がタチが悪いと思えた。
余談だが…今だから思うが、部員数多かったから部費がかなり潤っていた気がする。
公立校で流石に別棟スタジオってのは無いが、ヒュース・ケトナーのチューブ・アンプ、トレイス・エリオットのベース・アンプ、ドラムなどパールのプレステージ・シリーズという、プロ仕様の機材がズラリと教室に並んであり、初心者がタダで練習できた。なんと贅沢な環境だったろうと驚愕する。
いうても練習時間が土日のみで、事実帰宅部と同意義だった。。
私も上カーストの彼らと一緒…
学生の本業、勉強しにだけに通うことに何か抵抗したかったのか、自分の存在意義を確かめたかったのか。
ドラムに没入し
メキメキ腕を上げていった。
無骨に、クソ真面目に、純粋に…
しかし、本当に
広くヒトとのコミュニケーションというものを疎かにしてまでやることだったか?
過去を杜撰に扱ってまで前を見るしかなかったのか?
その後ベースの彼は我が軽音部の数人と有志バンドを組んだという話が上がった。
その頃は三年生だったかな、もう彼に対しなんの感情も無かった。
「へぇ、ウチ(軽音)の奴らとシャムシェイド(のコピー)やるんだ。難しいよー、中学のノリだけじゃ難しいよー!3年間君たちが遊んでるかバイトしてるかわかんないけどその間、ひたすら地味に練習して、いろんな音楽いろんな奴らと合わせた俺たち軽音部と、やりあえるのかねー
ま、勝手にどうぞ」
という感じ。
結局、そのバンドは実現しなかったし
彼らが校外で活動してたという噂も聞かなかったな。
私は既に、浦和ナルシスで洋楽ハード・ロック/ヘヴィ・メタルを。大宮ハーツでオリジナル曲を披露するレベルに達していた。
もう、彼らは眼中にはなかった。
しかし…当時、彼らに対しジトジトした思いがあった私がいちばん愚かだったのだ。
いくら要領よくやっても生まれ持った華は、そうやすやすと身につきはしない。
他人を楽しませる才能…
打算的な小手先だけの意識だけではどうにもならないだろう。
経験や習慣といったものが本当の人格や雰囲気を醸し出す。
それを改めて痛感するまで、あまりにも多くの時間がかかってしまった。
最後に…
所謂中位カーストの連中が、実は一番狡猾だったかもしれない。
どこかで線を明確に引けるドライさも兼ねていただろう。
かえって上下挟まって窮屈そうにし、まるで中間管理職のような立ち回りで、ソワソワといつも定まらぬ視線と挙動が奇妙な奴もいた。
中には良いやつもいたが。
陽キャとも合わせられ、私を含む軽音部員やゲーマーらインキャにも見下した感は全く無く、そんな彼は見事中央大に進んだ。
推薦で、だ。
おそらく壮絶な人生経験を既に積んでいたか、それこそ天性か。
鬱積したリビドーを持て余した我らオタク底辺と進学校なのにチョイ悪、怠いポーズがイケてるという風潮に押し上げられてしまった御上の陽キャらの背負ったものは、実は酷似しているのかもしれない。
封印から解き放たれた高校時代の記憶の再生はまだまだ序の口、始まったばかりだ。