没後、あるいは後世描かれたものより生前描かれ本人の賛が書かれた寿像にこだわるのは、制作上当然のことである。なので、この人はこういう人物である。と残した人の想いを考えると、たとえ数百年前の作者の判らない肖像だろうと、ないがしろにできない。禅宗では不立文字(教えは文字や言語では伝わらない)とされ、その一環として頂相を、その人物の教えそのものだと描かれたという。そう思うと各地に残されている、まるでオリジナルとかけ離れた頂相、頂相彫刻は、教えが正確に伝わっていないことになるのではないか?と思うのだが。修行者、あるいは手を合わせる人には、それより大事なことがあるかもしれないが、人の形ばかり作ってきた私は、どうしても平気ではいられないのである。