人像表現の究極とさえ思う臨済宗の克明な頂相だが、江戸時代の白隠禅師に残っていないようなので、その頃にはその習慣は失われたのだろう。そこで白隠の自画像を元に制作できないか、と考えていたのだが、海外でもゼンペインティングと呼ばれる白隠の作品は、達磨大師を描こうと大燈国師、あるいは自分を描こうとほとんど区別がつかない。これでは、私が最低限必要な解像度が得られず。誰も見たことないし創作なんだから、といわれるが、普段夜の夢こそまことな私だが、実在した人物となると話が出て違う。その分逆に、生前の姿が残されているのに、勝手な別人が如き像が作られるのが理解できない。