一休禅師の竹竿に骸骨を作っていて、その晩、骸骨枕に酔い潰れてしまうところを思いついた。まずメインの竹竿に骸骨を完成させ、撮影を済ませてからにすれば良いのに、思いつくと我慢が出来ない。せっかく作ったもっとも肝心な目を粘土で瞑らせてしまい、後で改めて目を作り直すという厄介なことに。後悔は事前にできないところに問題がある。 母が生きていたら幼稚園の台風の休園日、佃の渡し船の絵を描いていて、煙突だかに描かれた東京都のマークを描くため、近くのマンホールの蓋を土砂降りの中止めるのも聞かず見に行った話をするだろう。聞かされるたび、生まれついてのことで私に責任はなく、両親のブレンドの問題ではないか? だがしかし、良い悪いはともかく、作りたい、という想いや念は必ず人に届くと考えている。