私をずっと苛んできたプレッシャーは、建長寺の歴史もさることながら、公案、悟りなど禅のことなど判りもしないのに手がけていたことである。そんな私を支えてきたのは、制作のきっかけとなった蘭渓道隆や一休などの頂相が、師の教えそのものとされてきたことである。長らく人像制作一筋の私は、それにより修行者の方々とは受信周波数帯が異なるかもしれないが、何某かの念を受信していたのは間違いない。でなければ二年以上一枚の頂相を毎日穴のあくほど凝視続けられない。写経ならぬそんな修養法があっても良いのではないか。絵師の模写と違って立体化はより対話が必要である。 そんな私の次なるターゲットは白隠禅師の『乞食大燈像』である。もちろん白隠とは違い、大燈国師の讃の書かれた頂相を元に制作するのはいうまでもない。
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