幼い頃、頭に浮かんだものは、どこへ消えていってしまうんだろう?確かに在るのに。そもそも何で見たこともないものが浮かぶのか?結局、その浮かんだものを可視化し、やっぱり在った、と確認することが私の創作行為となった。それは私とは何か?につながる。 作らずにいられないことには、必ずそのヒントが含まれている。特にそれが、人物の教えそのものである、という趣旨のもと描かれた一休や蘭渓道隆の頂相だった場合、そこには凡百の肖像写真や肖像画とは異なる成分が含まれている。それを人像制作者の私は修行僧とは異なるアンテナで受信している。 次なる制作対象者曰く〝衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。たった一人、ボロ小屋で野菜を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である“ まさに望むところである。