実在者は散々作って来た。説話上の仙人など自由に作れるし完成も早い。最後はこれで行くつもりでいたが、建長寺の開山蘭渓道隆の生前に描かれた唯一の肖像画(頂相)を見て気が変わってしまった。写真、肖像画を参考に長い間制作して来たが、この肖像の何が私をそうさせたのか、それを知るには作るしかない。 臨済宗では頂相は、師の教えそのものとして弟子に託された。その思念が七百数十年後の、この不信心者に伝わってしまったのか。完成した像を携え建長寺の三門をくぐる時は、すっかり我に返っており、満開の桜が桜に見えず、まるでテイッシュペーパーのように見えた。 しかしここ何年か、理由はともかく、私ほど毎日穴の開くほど禅師の頂相を見つめ続けた人間は建長寺にもそう居られないのではないか?何かしら頂相から受け取ったのは間違いがなく、それが何かを知りたければ、私には坐禅することではなく、作り続けるしか策はないのは判っている。