ここに至れば作品を毎日制作するという私なりのことを、今まで通り続けた方が“真相“に近づく気がしている。考えるな感じろは良いとして、何でそうなったか、に関して理解が追い付き、ハタと手を打ち納得、なんて時が来るのかは判らないけれど。 幼い頃から伝記の類を読み耽り。人の形にも関心が高く、TV番組の誰かを当てるシルエットクイズが得意であった。肖像画に関して蘭渓道隆の寿像(生前描かれた)ほど何かを感じたことはない。この2年私ほど穴のあくほど見つめた人はいないだろう。臨済宗では頂相が師の教えそのものとされた。その念が七百数十年後の私のような不信心者にまで何某かが伝わってしまったということだろう。そんな時、私は作る。迷わず作れよ、作れば判るさ。となるのだろうか。