〝考えるな感じろ“で生きていると、自分の中の自然物に等しく備わっている某かが導いてくれる、と薄々感じてきたが、禅宗の人物をモチーフにしていてほとんど確信となった。そうなると、単なる創作上のモチーフではなく、創作行為がそのまま自分とは何か、を探求することになる。本来そうあるべきだろう。 達磨大師は岩壁に向かってまる九年坐禅したという。おかげで手足が腐り取れてダルマの姿になった、というのは日本だけのストーリーらしい。 私は粘土に向かって40猶予年。悟ることなど頭の隅にも考えたことはないが、足腰の衰えだけは一人前である。