無学祖元が蒙古兵に刃を向けられながら退散させた、という来日前のエピソードは、今のところ描かれたものは確認していない。円覚寺という特定の寺の開山のエピソードだからだろうか。蘭渓道隆は、残されたいくつかの像に、国立の機関が、X線を当てたり年代測定などしたようだが、生前に制作されたのは、国宝である肖像画だけかもしれない。だとすれば立体化も意味があるような気がする。 例によって、今こんな物を作ってあるのは私だけだろう、と夜中に一人想う時、えもいわれぬ快感が溢れてくる。特に七百数十年の間ともなれば格別である。これを七百数十年、必要とされなかった、と考えてしまうようでは、件の快楽とは無縁ということになる。〝需要など考えるな感じろ”という話である。この辺の心の待ちようは私の得意とするところである。