陰影を無くした手法により、画面上の自由を獲得して思った通りの結果を得た。平面に描かれた赤富士の前に立つ葛飾北斎。しかし後ろにある赤富士を見上げている。陰影があったらこんなことは出来ない。これが出来るようなら寒山拾得も、と思った。昔の日本人はこんなことは平気でやっていた。図書館で浮世絵やかつての日本画を眺めては羨ましがっていたのは六年前か。おかげで少々先を急ぎ過ぎた気がしないでもないが、同じことを続けている程時間がないのも事実である。 先日、医者に癌かもしれないといわれた友人を見ていて、私がその立場だったとしても、今なら寒山拾得展をやっておいて良かった、と思えるだろうと思った。結局癌でもなんでもなかった友人に、これからはあれもこれもやっておこうと思ったろ?と聞くと、もう何もしないでじっとしてようと思った、という。入退院を繰り返し亡くなった父が、今回はダメかもしれない、と思ったものの退院を果たした時、実家に帰ったらガリガリに痩せた父は水戸黄門を観ながらスポーツ新聞を読んでいたから人それぞれである。