新手法を私の大リーグボールだ、などとはしゃいでいたが、実のところ、あれほど絵のようになるとは思っていなかった。日が経つにつれ、釈然としない感じが大きくなっていた。何しろ意図していなかったのだから。結果が面白ければそれで良い、とはいかない。 しかし今回の圓朝の写真、今までで最も作り物めいている。この世の物である証の陰影がないからであろう。この人形じみたことこそが絵に見えるもっとも大きな現因ではないか。ということは、人形ならではの撮影方法を手にいれたのではないか、そう思ったら気持ちが変わった。当初人間でも応用可能かと思ったが、陰影を消すこと自体は機材さえあれば誰でも可能であるし、実際そんな人物写真をいくらでも見たことがあるが、絵のようにはなっていない。まあ当たり前である。よって作った人形でこそ絵のようになる。ということであろう。 この手法で圓朝が出来た時、いつか手がけたい、と思いながら写真では無理、と思っていた『寒山拾得図』が案外可能では、と思ったことは書いた。寒山拾得、森鴎外も味のある一文を書いているが、寒山と拾得という非僧非俗コンビである。昔から主に水墨画の画題となっていて、ずっと気になっていた。中国にある寒山寺は臨済宗の寺だという。臨済宗?一昨日訪れた谷中の全生庵、同じ臨済宗の禅寺ではないか。これは偶然なのだろうか?おそらく違うだろう。
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