某神社は百段はあろうかという石段を上がり鳥居をくぐる。作中では鳥居はなく、杉の古木が生えている。忠実に現場を描写する鏡花であるから、当時は鳥居の場所は違っていたのであろう。作中のままだとしたら、今は家が立ち並んだあたりにポツリとあったのかもしれない。私は街自体を消し、荒れた水田と畑で覆った。 現場は石段を上りきると、右に折れ、さらにだらだらとした石段があった。左の崖側には紫陽花が群生していて、ここのカットを使うことは最初に決めていた。陰鬱に写る東ドイツ製レンズのおかげで紫陽花が妖しい。しかし鏡花はここを“坂”と書いており、石段とは書いていない。鏡花は目に見えない物をあれだけ描きながら、見える物に関しては律儀である。しかたがない。鏡花が坂と書けば石段ではない。石段は後に作られた物であろう。紫陽花はどうしても削除しがたく、別の所から山道を持ってきて合成し、紫陽花を生かした。   私は作品として風景を撮るのは本来好きではない。良い日に良い場所にいました。それを証明しているに過ぎないように思えるからである。もちろんそういうものではないのだが。しかし今回、様々な風景をでっち上げてみて、そんなカットに限り愛着が湧いた。なにしろ探したってどこにもない風景である。写真は本来光画と訳すべきで、まことを写すという意味の写真という言葉が嫌いなことは何度もいっている。まことなど扱ってたまるか、と画面からまことを排除することにファイトを燃やしている。鏡花のおかげで頭の中に浮かんだ風景をねつ造するのが楽しくなってきた。 坂を突き当たると急な角度でさらに折れ、再び石段がある。ここでようやく境内が見える。最初の石段と違い、二つ目の石段は、6、7段程度の物である。鏡花はその長さ、段数は書いていない。もっと長い石段だと思わせたかったのかもしれない。異界の社は近づきがたく在るべきである。少なくとも私はそう思い込んで2つ目の石段を見て拍子抜けした。だったら再び長い石段と書いてしまえばいいものを鏡花は書かない。私がここに持ってきた石段は、実際よりはるかに長い石段で、なぜこれだけ放っておいた、というくらい雑草が茂っている。おかげでこの先にアンタッチャブルな存在が生息している雰囲気が実際より出ただろう。

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