浜辺の松の木の下でせんべいを食べビールを飲む三人組。すでに完成していたカットを、見開き用の横長の構図に変更する。ロケ地の海岸には都合よく松の木が生えていなかったので、都内で撮影した松を移植した。松の木を移動したら、はるか向こうにサーファーがいた。三島の背景用に灯台を撮影し、作業を大半終えたところで、上で若い男女が抱き合っているのに気づいたこともある。背景を決めるときは、ざっと見てピンとくるぐらいでないと使えないので、すぐに決めてしまうのであるが、こういうことがあるので気をつけなければならない。 先日撮影したカットで、場面の解釈に関し、決めかねているカットがあった。鏡花は読者に任そうと、あえて触れないでいるのであろう。だったら私も余計なことをせず、と考えないでもなかったが、私のやっているのは小説のビジュアル化という、そもそも最初から余計なことをしている訳である。それに迷った場合はやってしまう方を選ぶことにしている。やりすぎて後悔したことは一度もない。 作者の鏡花は極度の潔癖性である。なので当初は考えもしなかったが、ここへきて鏡花の筆の走り方は、完成度より、むしろ生臭くベトベトして幼稚な河童の気分で書いているように思えてきた。こういう作品は、おのれの顔をフィリピンパブのフィリピーナに「苦労ガ足リナインジャナイ?」と評されてしまうような、幼児性を保持した私のような人間こそ手がけなければならない。堀辰雄は『こんな筆にまかせて書いたやうな、奔放な、しかも古怪な感じのする作品は、あまりこれまで讀んだことがない。かう云ふ味の作品こそ到底外國文學には見られない、日本文學独特のものであり、しかもそれさへ上田秋成の「春雨物語」を除いて他にちよつと類がないのではないかと思へる。」と書いている。