白隠禅師の描く達磨大師その他の肖像が自画像説があるようで、だとするなら誰を描いても変わらないのは当然である。そして本人が私はこういう人間である、と自画像を残しているのなら、素直に尊重すべきではないか?私が存命中に描かれた頂相にこだわるのも、松尾芭蕉の門弟達が残した肖像画にこだわったのも、ひとえに姿を残そうとした人達の想いを考えるからに他ならない。白隠も検索すると立体像が見つかるが、噂話くらいは聞いていそうだが、尊重されているようには見えない。 今日は友人2人と1時から飲んだのだが、これからは実在した人物からは足を洗おうと思う、と寒山と拾得の首を最初に見せた2人であった。その後あらぬ方向に。
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