「南の島に雪が降る」

加東大介:著

光文社

 

 

第二次世界大戦中のニューギニア島。大勢の死者を出したニューギニアに駐屯した日本軍の中に、兵士達の心を慰め支え続けた演芸分隊があった。

戦争の虚しさと、その中で懸命に生きた人々の姿を記録した、俳優:加東大介氏の戦争体験記。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

★★★〈自分が読んだ動機〉★★★

父の本棚で見つけた小林よしのり氏の漫画「戦争論」に、小林氏の祖父が戦時中のニューギニアで演芸分隊に参加していたことを描いた話があり、本書の存在を知りました。

舞台の上に雪を降らせたエピソードがあまりに哀しく感動的な話だったので、原作を読みたいと思って本書を読みました。

 

本書に登場する「九州の怪僧」篠原曹長が小林よしのり氏の祖父です(名僧として有名な僧侶でした)。篠原曹長はオーディションで博多仁和加(博多弁を使った即興笑劇)を披露して採用され、役者として参加していました。「戦争論」でも「南の島に雪が降る」でも、がっしりした体つきで顔中に黒々と髭を生やした凄みのある外見の、豪胆でイキな傑物として描かれています。

 

 

★★★〈著者について〉★★★ 

加東大介氏(1911-1975年)は黒澤明監督作品をはじめ多くの映画に出演された俳優です。映画に詳しくないので、「戦争論」で初めて知りました。

 

自らの体験を綴った「ジャングル劇場の始末記 南海の芝居に雪が降る」を1961年に文藝春秋に発表し、第20回文藝春秋読者賞を受賞。ドラマ・映画・舞台となり、小説はベストセラーとなりました。(映画は加東氏が本人役で出演!)

 

 

★★★〈こんな人におすすめ〉★★★

・戦争体験記を読みたい人。

・役者が主人公の物語を読みたい人

・演芸の持つ力について描かれた物語を読みたい人

 

 

★★★〈あらすじ〉★★★

昭和18年、軍の召集令状が届き私は軍に入隊した。

派遣されたのはニューギニアのマノクワリという、海岸線からすぐにジャングルになる小さな港町。私の職場はジャングルの中に作られた病院で、病院の患者は栄養失調・マラリア・デング熱など、みな骨と皮だけの病人ばかりだった。

 

戦局は次第に悪化し、爆撃で病院の一部も患者ごと吹っ飛ばされた。

食糧を積んだ補給船は沈められ、食糧は底をついた。食糧事情は悪化し、各隊でサツマイモを栽培し、食べられそうな野草を集め、バナナの幹も根も食べる状況に皆すっかり衰えてしまった。

 

すぐ近くの島が全滅した後、マノクワリに残っていた陸軍の約半数にあたる1万人に退却命令がでた。私は病院を守る組、いわば玉砕組に残された。しかし結局アメリカ軍は別の島への攻撃を開始し、マノクワリに上陸してくることは無かった。

 

戦局も内地の様子も全く分からない。食糧は乏しく、栄養失調と病で戦友はポツリポツリと死んでいく。何の見通しもなく死に近づくだけの毎日に、皆の心は荒み切ってしまい、諍いが絶えなくなった。一番多いのは食べ物を巡る争いだ。ネズミやトカゲの取合いもあった

 

苛立った気持ちをやわらげ、仲良く暮らしていけるよう、演芸分隊の発足が決まった。

俳優である私が班長を任され、マノクワリに点在する部隊から演芸要員を集めた。

軍隊は人間社会の縮図、あらゆる職業の人間が集まっている。プロの俳優・歌手・三味線弾き・舞踏家・脚本家。プロでなくとも芸達者な者も採用し、洋服屋・カツラ屋・友禅デザイナーといった職人たちが衣装や舞台装置を作った。

 

演じる場所は、ジャングルの中に建てた「マノクワリ歌舞伎座」。本格的な劇場で、収容人数は250人前後。ほぼ一カ月ごとに出し物を変え、マノクワリ中の部隊が日替わりで舞台を見に来た。

 

何の見通しも立たない状況で死を待つ兵士たちにとっては、月に一回の観劇が、舞台の上の日本を見ることだけが生きる支えだった。私たちは一日の休みもなく舞台に立ち続けた。

 

物資の乏しい中でも工夫を重ね、役者も裏方も段々と腕を上げていった。

そしてとうとう、舞台の上に見事な雪景色を作り上げた。

 

 

★★★〈戦闘ではなく、飢えと病で死んでいった兵士達〉★★★

戦争というと戦闘や空襲が、戦死者というと戦闘で負傷し命を落した人がイメージされます。しかし本書は「戦闘なき戦争体験記」です。

マノクワリには時折空襲があるもののアメリカ軍が上陸してくることが無かったので、戦闘がありませんでした。多くの兵士たちの命を奪っていったのは戦闘ではなく、栄養失調とマラリアなどの病でした。

 

補給船がことごとく沈められて食糧が尽きたため、食べられそうな野草を集め、バナナは幹も根も食べる。部隊の最も大切な仕事はサツマイモを栽培すること。イモの葉っぱがご馳走になるような状態で、兵士は栄養失調で衰弱してしまいます。

 

物語のほぼ全編にわたり、栄養失調と病で死んでいく何人もの兵士達が描かれています。

加東氏は、骨と皮だけになって表情も失われた病人を何人も看取りました。

農作業の休憩中に死んで、作業再開の号令がかかっても起き上がらない者。

死んだ者を埋める穴を掘りながら死んでいく者。

「あの人は死にましたよ」「来月も芝居を見に来れるかなあ」「いやお前は無理だろ」と感情の起伏もなく淡々と、むしろ明るく死について話す者たち。

 

死を目前にした人たちの様子はただただ悲痛で、読んでいてたまらなくなります。

次の公演まで生きていてくれ、と祈ることしかできない。それでも弱った体でジャングルの奥から芝居を見に来た人たちが喜んでくれることが、演芸分隊の喜びであり励みでした。

 

加東氏は戦後も役者として活躍し、行く先々でマノクワリの舞台を見た元兵士たちと出会い、「わたしには七千人ものごく親しい戦友がいる」(276ページ)と記しています。

約半数の一万人に退却命令が出たマノクワリには一万人近い兵士が残ったはず。しかし加東氏の戦友は七千人。約三千人近くが命を落としたことになります。

失われた命の多さに愕然とするばかりです。

 

 

★★★〈兵士の心を支え、命を繋げたマノクワリ歌舞伎座〉★★★

「きみたちは演芸をやってるだけじゃないんだぜ。ここの全将兵に生きるハリを与えているんだからね」

「娯楽じゃない。生活なんだよ。きみたちの芝居が、生きるためのペースメーカーになってるんだ。」(176ページ)

演芸分隊の発足を促した上官は、そういって加東氏らを励ましたそうです。

 

長期戦を見越した体勢を敷けという命令。しかし食糧不足で皆衰弱し、栄養失調と病で人は次々に死んでいく。戦局も内地の様子も分からない。幹部は口を開けば百年戦争。

この先どうなるのか全く分からない。いつ来るかもしれない死を待つだけの日々に荒み切った兵士たちの心をどうにか和ませたい、と作られたのが演芸分隊です。

 

加東氏は演芸分隊を発足が決まった時から、本格的な芝居をしようと決めていました。情操教育を目的とするならば、酒の席の余興のようなその場だけ笑わせるものではなく、本式の芝居でなくては意味がないという思いがあったからです。

 

狙いは見事に的中し、兵士たちにとって月に一回の観劇が何よりの喜びとなり、生きる支えとなりました。

弱った兵士を「もうすぐ観覧日だから頑張れ」と励まし、「劇を見なくちゃ」と病人が快方に向かうというのが定説になりました。

しかしそれとは逆に、「今日の芝居は面白かった」と言ってそのまま息を引き取ったという話も多く届きました。死ぬまで芝居のことばかり話していた人もいたといいます。

 

演芸部隊も自分たちの役割を承知し、一日も休演することなく舞台をつづけました。演芸分隊にとっては演じることが戦いだったのです。

 

舞台の上には、日本がありました。

もう二度と見ることが出来ないかもしれない故郷の風景を、一体どんな気持ちで見ていたのだろう。考えると胸が痛くなります。

 

 

★★★〈全てが手作り、でも本格的な舞台〉★★★

マノクワリ歌舞伎座は、芝居も舞台装置も音楽も本格的でした。

当然ながら現地に芝居用の資材はないので、あるものを使ってなんとか作り出すことになります。しかし作るのは本職の職人たち。それぞれの技術を駆使し本格的な道具を次々と作り出し、役者たちの演技に磨きがかかるのと同様に、舞台装置もどんどん本格的になっていきます。

 

白粉は病院の天花粉・軟膏などあるものを使って調合し、口紅・頬紅は赤チンやチョークで代用。

針金職人の技はかんざしなどの小道具作りに大いに活かされました。

カツラ屋は、麻のロープをほぐして墨汁で染め、叩いて柔らかくし、機械油で光沢を出すという方法でかつらを作りました。

紳士服テーラーが服を仕立て、友禅染デザイナーが布に絵を描き、見事な柄の着物や緞帳を作りました(後に女性服デザイナーの大尉も客員として加入)。

友禅染デザイナーは舞台装置も担当し、障子やかやぶき屋根、柿や桜の木、遠くに見える山波、二階建ての建物、舞台の端から端へ渡る大きな橋、本当に水が流れているように見える滝など、舞台の上に日本の風景を出現させました。

どうしても作れないものは、他の部隊にいる職人に頼んで作ってもらうこともありました。

 

持てる技術をフル活用し、試行錯誤しながら舞台を作り上げていく様子はとても楽しそうです。

きっと「何かを作り出すこと」「協力して何かを成し遂げること」の喜びがあったのだと思います。

 

 

★★★〈南の島に降らせた雪〉★★★

やはり一番の見所は、本のタイトルにもなった「南の島に雪が降る」の章です。これは「関の弥太ッぺ」を上演した時に見事な雪景色を作り上げた時のエピソード。

四季のない熱帯のジャングルの中にどうにか雪景色を作りたいと悩んだ結果、重ねた毛布を上に真っ白なパラシュートの布を敷き詰めることで降り積もった雪を再現し、木や屋根に降り積もった雪は病院の脱脂綿で、舞い散る雪は細かく切った紙を散らして演出しました。

 

舞台の大詰め、幕が上がるとそこは一面の雪景色でした。

まるで本物のような雪景色に、幕が上がると連日大歓声があがりました。加東氏と篠原曹長は観客がしばらく雪見を楽しんだあと、どよめきが収まった頃合いを見計らって舞台にあがり、雪の中で立ち回りを演じました。

 

しかし何日目かの上演の時、幕が上がってもいつもの大歓声がなくシーンとしていました。

不思議に思い舞台袖からこっそり客席を見ると、300人近い兵隊が一人残らず泣いていました。

その日来ていたのは東北の部隊。生まれ育った故郷と同じ雪景色を見て、皆声も出さずに涙を流していたのです。

加東氏と篠原曹長はやけくそ気味に舞台に走り出て、泣きながら立ち回りを演じたといいます。

 

召集された兵士の大部分は、戦うことを職務・生きがいとする軍人ではなく、軍とは関係のない仕事に就いて家族と共に暮らしてきた「普通の人達」です。

そんな人たちが日常生活を奪われ、飢えや病で苦しみ、紙の雪を見て涙を流し、次々に死んでいく。

一兵士として戦地を生き抜いた加東氏の体験記からは、どれほど美辞麗句を並べても、戦争は必ず悲劇を生むという現実があると伝わってきます。

 

 

★★★〈命を粗末に扱った日本軍のエピソードの数々〉★★★

加東氏の体験記である本書からは、命を消耗品として扱った司令部の感覚や作戦のお粗末さが垣間見えるエピソードが所々に見られます。

 

加東氏は日本からニューギニアへ向かう途中に寄った台湾で、同じくニューギニアで向かう部隊に出会います。コースは違うものの、部隊の規模や編成内容はほぼ同じ。途中で沈められることを考え、違うコースで2つの部隊を派遣してどちらかが着けばいいという発想だったのです。つまり片方の部隊は全員死んでも構わないという計画でした。

 

マノクワリの部隊の約半数に出された南方への退却命令は、「地図のうえに線を引いて、その直線距離を、指先でチョイチョイと測っただけ」(48ページ)という杜撰な行軍計画で、飢えとマラリアでほとんどが命を落とし、後に“ニューギニア死の行進”と呼ばれました。退却命令を出した将官は自分で怖くなり、自分だけ飛行機で内地へ逃げ帰るという愚行を犯しています。

(玉砕組として残された加東氏は退却していく人たちを羨ましく思ったものの、結果的に残留したことで命拾いしたのでした。)

 

観劇に来た部隊の中には、ひときわ劣悪な環境に駐屯する部隊がありました。

出撃途中で補給が続かずに後退した経験のあるこの部隊は、「負け戦の味を知った人間を内地に戻したくない」という上層部の思惑から、飢えとマラリアで全滅させるためにわざと劣悪な場所に配置され、食料や物資の配給を最低限しか行われていませんでした。実際この隊の減り方は飛びぬけて多かったそうです。

 

下された命令は、真剣に考えられた作戦だったのだろうか。

その作戦で勝てると思っていたのだろうか。

大勢の死者について、どう思っていたのだろうか。

 

あまりに命を軽んじる作戦の数々に、そう思わざるを得ません。

「真に恐れるべきは有能な敵ではなく 無能な味方」というナポレオンの言葉がしっくりくる。マノクワリはそんな状況だったのではないかと思います。

 

戦争に勝つという大きな目標があったとしても、何の見通しもなく、故郷に帰れる保証もない、劣悪な環境に置かれたまま、命が消耗品のように失われていく戦地では、士気が上がるどころか生きる気力さえ失われてしまう。そんな実情が綴られています。

気力が失われれば、本来出来ることも出来なくなってしまうのは想像に難くありません。

 

無謀な作戦の結果がマノクワリの惨状で、そんな状況だからこそ生まれたマノクワリ歌舞伎座の物語には、感動だけでなくやるせない悲しさと虚しさが漂っています。

一体彼らは何のために苦しみ死んでいったのか。

命令を下した人たちは、それに答えることが出来たのでしょうか。

 

 

★★★〈命を繋ぐものとは〉★★★

「きみは、なんてしあわせな役者なんだろう。そんなにもよろこんでもらえる舞台を踏んだ役者は、めったにあるものじゃない」

「芸とはね、人をたのしませることだよ」(279ページ)

 

帰国した加東氏は、マノクワリ歌舞伎座のことを話した脚本家からそう言われたそうです。

こんなにも人に喜んでもらえる舞台を踏めた自分はしあわせな役者だと、加東氏は語っています。

 

演芸はエンターテイメント。生きていくために必ずしも必要ではない、非常時には真っ先に切り捨てられる分野ですが、マノクワリでは演芸が多くの人々の心を支えました。

 

腹を満たすものでなくても、人が生きていくために必要なものがある。

武器を持たなくても、補給など軍の裏方業務ですらなくても、演芸にしかできない戦い方がある。

マノクワリ歌舞伎座の物語からは、そんな加東氏の強い思いが伝わってきます。

 

「ずっと役者の道を歩んでいきたい。いつまでも、人にたのしんでもらえる演技者でありたい。」(280ページ)という言葉どおり生涯現役を貫いた加東氏は、きっと演芸が持つ底知れない力を知っていたのでしょう。

 

喜ぶこと。たのしむこと。それは生きる力を生み出してくれるものです。

「生きていくために必ずしも必要ではない」文化がどんな時代でも絶えることなく続いてきたのは、人が生きていく力を生み出すから。喜びもたのしみもなければ、人は生きていけないから。そう思います。

 

 

★★★〈終わりに〉★★★

「南の島に雪が降る」は、実際にあった話です。

戦争の虚しさと悲しさ。演芸がもたらした温かい感動。

人間の愚かしさと素晴らしさの両方が描かれた、悲しくも感動的な戦争の記録文学です。

戦争を語る上で、ぜひとも読み継がれてほしい本です。