「変身」

東野圭吾:著

講談社文庫

 

 

「だけどもし、脳を全部取り換えたらどうなるの?それでもやっぱりジュンなの?」

(95ページ)

 

青年に施された世界初の脳移植手術。成功したかに見えたものの、術後に人格が段々と変わっていく。これは移植された脳の影響なのだろうか。

 

 

 

 

 

★★★〈自分が読んだ動機〉★★★

中学生の時に東野圭吾さんの作品にはまり、手当たり次第に読み漁っていた時に出会った本です。

 

 

★★★〈こんな人におすすめ〉★★★

・医療ミステリーが好きな人

・主人公がサイコパスの物語を読みたい人。

・主人公が段々とサイコパスになっていく物語を読みたい人。

 

 

★★★〈あらすじ〉★★★

平凡な青年・成瀬純一は、引っ越し先を探そうと訪れた不動産屋で強盗に遭遇し、拳銃で頭を打たれる大怪我を負う。そして彼に、他人の脳の一部を移植するという世界初の脳移植手術が行われた。

 

手術は成功し、何週間もの入院生活の後、後遺症もなく元の生活に戻ることができた。しかし手術前と比べ、段々と自分の性格が変わっていくことに気付く。

 

大好きだった絵を描こうと思っても描くことができない。

食べ物や映画など嗜好の変化。

職場の人間が、怠惰で精気のない人間に見えるようになる。

恋人と過ごす時間が楽しいと感じられなくなり、無意味で苦痛な時間となる。

そして以前はあり得なかった暴言・暴力や殺人衝動。

 

争い事を嫌う気弱で優しい青年が、「お前は変わった」と周囲の人間も気付くほど、人格が変わっていく。

 

段々と自分を失っていくことを自覚するも、退院後も定期的に検査を行う医師達からは「異常はみられない」と言われるのみ。彼らは自分に何かを隠しているのではないか、と次第に不信感を募らせていく。

 

移植された脳片のドナーの性格が影響しているのではないか。そう思った純一は、ドナーについて知ろうとしてはいけないという医師達の命令を破り、ドナーの正体を突き止める。

 

自分に施された脳移植手術の真実を知り、人格の変化を止めようとする純一。手術の副作用を隠し脳移植手術の研究を進めたい組織。双方の思惑が絡まる中、暴力的な人間へと変貌していく純一の行動は次第に暴走し始める。

 

 

★★★〈徐々に変貌していく人格〉★★★

銃撃によって損傷した脳の一部を摘出し、他人の脳を移植するという世界初の脳移植手術

は成功し、純一は何の後遺症もなく日常生活に復帰できたものの、徐々に人格が変わっていきます。それも暴力的な異常人格へ。

自分が自分でなくなっていくことを感じながら、自分ではどうすることもできません。

物語は純一の一人称で語られますが、物語の序盤と中盤以降はまったく違う人間に変貌していて、人格の違いを書き分ける文章力がすごいと思いました。

 

 

★★★〈手術は成功か失敗か。当人と医者の見解の相違。〉★★★

命が助かり、後遺症も残らず日常生活に復帰できた。だから手術は成功だと研究者は言います。

しかし純一は、自分を失うこと、それまでの人生が別人の人生としか感じられなくなること、

それは死ぬということだと言います。

手術の成功とは何か、人間とは何か、という、おそらく答えの出せない問いかけを投げかけています。

 

 

★★★〈新技術の実験台にされた主人公〉★★★

脳移植手術は、脳移植の技術の確立を目指す政府関係者からの強力なバックアップと指示があって行われたことだと研究者は告げます。純一は自分が実験台にされたことにも怒りを露にします。

 

医学の発展には犠牲がつきもの、と聞いたことがありますが、世界初の脳移植手術をテーマにしたこの物語で、医療技術の進歩は実験と犠牲の繰り返しであると思い知らされました。

 

最新・最先端の技術。新しい治療方法。新しい薬。

世間には「新しいものは素晴らしい」という風潮があるように思います。

 

確かに新しい手法はそれまでにない素晴らしい結果をもたらすという期待がありますが、同時に副作用について詳しく分かっていない、ということでもあります。

もちろん安全性を実証して上での実用化でしょうが、何事も実践してみないと分からないことがあり、施術から一年後、十年後、数十年後と長期になるほど、想定外の副作用が判明することもあるでしょう。

日本でも過去に何度も重大な薬害が起きていますが、薬害を起こした薬は全て、安全だと言われて実用化されていたのですから。

 

極端な言い方になりますが、世に出て間もない医療行為を受ける時は、自分は実験台であると思った方が良い。そう思ってしまいました。

 

 

★★★〈選ぶことができたなら〉★★★

純一は瀕死の状態で病院に運び込まれ、また奇跡的に適合する脳片があったことで、本人の同意なしで世界初の脳移植手術が行われます。

 

手術後、研究者は純一に問いかけました。

「他人の脳の一部を移植すると人格が変化する恐れがある。それでも手術を望むか、それとも植物人間となるか。と死の淵を彷徨っているときに質問されたらどうだっただろう。」と。、純一は言葉を返せませんでした。

 

手術にどんな副作用があるのか分かっていたら、手術を断ると即答したと思います。しかし副作用が未知であれば、副作用のリスクより生きる可能性に賭けたかもしれません。

 

もし自分が純一と同じ立場に立たされ、選ぶ権利があったとしたら、自分は一体どうするだろう、と考えましたが、答えを出せませんでした。

同時に、死ぬか生きるかの選択を迫られていない場合、必ずしもその手段を選ばなくても良い、選択の自由がある場合にはどうするだろうか、とも考えてしまいました。

 

医療に想定外の事態はつきもので、失敗を繰り返すことで技術を発展させていくことは確かでしょう。少数の犠牲で大人数が助かる技術が確立するのなら、全体主義的な考え方で見るとそれは人間社会のために必要なことでしょう。

 

しかし自分は「少数の犠牲」になっても良いのか。

そのリスクを負ってまで手に入れるべき結果なのか。

想定外の副作用でかえって事態の悪化を招いたとしても、「運が悪かった」「仕方ない」と納得できるのか。

想定外の副作用があれば、それを抱えてどう生きていくのか、そして純一のように「自分をどう終わらせるか」を考えることになります。

 

医療行為は身体を変えてしまうもの。選ばなければならない事態に直面したら、最新のものだからと安易に飛びつくのではなく、その手段を選ぶこと・選ばないこと、双方のメリットとリスクを天秤にかけよく考えた上で選択したいと思いました。

 

 

★★★〈終わりに〉★★★

新しい手段をとるのは、「期待通りの良い結果」だけではなく未知のリスクも取るということ。リスクを承知の上で、想定外の副作用があったとしても「そんなこと聞いてない」と言わずに結果を受け入れる覚悟がなければ、安易に選択してはいけないと思いました。

手段を選べるのなら、自分の身体を守れるのは自分だけ。もちろん選択の結果に責任を取るのも自分です。その覚悟があるのなら、選ぶ自由があるのは恵まれていると思います。

時と場合によっては、選ぶ権利さえないのですから。