「きみよわすれないで」

篠原一

河出書房新社

 

 

 

 

 

 

世界中であらゆるものが生産されていく一方で、ひとつずつ確実に何かが壊れていくのだとしたら、私は壊れていくものに引き寄せられる子どもだった。泣き叫ぶようなあたたかさは私にはそのときにしてもうなかった。

 

引き寄せられて、ふたりきりになってしまう。そのことだけが私の身体をあたためた。

 

私たちは世界の真ん中でたったふたりだった。

(81~82ページ)

 

 

★★★〈あらすじ〉★★★

 

14歳の春に出会った盲目の調律師の手を、うつくしいと思った。

その調律師は半年に一度、姉のピアノの調律のために家にやってきた。

名刺の住所を見て調律師の部屋を訪ねたのは15歳の時。それから彼の部屋を頻繁に訪れるようになった。ゆるやかな時間が流れるこの部屋が、自分の居場所だと思った。

彼はおじさんと呼ばれることを好んだ。まだ25歳と若かったのに・・・

 

10代の初めに突然視力が減退し始め、とうとうものの影くらいしかわからなくなった14歳の時、母の実家に預けられた。海と山に挟まれた町の母の実家、その裏山にある小さな離れに住んでいた叔父と一緒に暮らすことになったのだった。

その時叔父は24、5歳。親戚から変わり者と呼ばれている叔父だった。しかし私にとっては唯一の庇護者で、叔父との暮らしが私の世界の全てだった。

私が19歳になる少し前に、叔父は首を吊った。鴨居からぶら下がった叔父を最初に見つけたのは私だった。

 

少女と調律師、少年時代の調律師と叔父。二つの物語が交互に語られる。別々の物語はやがて重なり、少しずつ崩れ始め、終わりを迎える。

 

 

★★★〈感想・解説〉★★★

 

少女、調律師、調律師の叔父。

彼らに共通しているのは、他人が気に留めないことを感じ取る、繊細で鋭い感覚をもっていることです。

上っ面だけを取り繕うことに空虚さと浅はかさを感じ、本質を見ようとする、というより、見ようとしなくても見えてしまう。

そのため他人からすると癪に障る、変わり者、と思われています。

 

気付きたくないものにも気付いてしまう。周囲からの疎外感。繊細であるが故にそれらは、彼らにのしかかる暗闇となってしまいます。

自分の内側に抱えた闇に押しつぶされそうになっている、調律師の言葉を借りると「薄暗がりを手探りで歩いている」ような人達です。

 

外見や肩書などから「可愛げがある」「腕がいい」などの評価は受けても、それはあくまで表面部分だけの評価であり、その人の内側の深いところまでは理解されていませんでした。

 

しかし似た者同士が出会うことで、親しみや愛おしさ、安らぎを覚えます。

少女にとっては調律師の部屋が、調律師にとっては叔父と暮らす家が、自分の唯一の居場所でした。

似た者同士といっても、お互いの心の奥深くまで理解しあっていた、というわけではありません。ただ言葉にせずとも感覚的に互いの暗闇を感じ取り、理解し、受け入れることができたのです。

 

本書はストーリーを楽しむというよりも、登場人物の心の動きや、そこから生まれる空気感が主役の物語だと思います。

そのため本書の内容や感想を言葉で説明することがとても難しいです。

言葉にすると陳腐で説明くさくなってしまい、物語の雰囲気を壊してしまいそうです。

 

最初に読んだ時、「え、もう終わり?」とあっけなく終わったと感じてしまいました。

しかし何度も読み返すうちに、台詞の端々や仕草、二つの物語が一本の線をなぞるように重なっていく構成、時折挟み込まれる寓話のような物語から、彼らの心情が滲み出ていることに気づきました。

 

読むだけでなく感じ取ること、を求められている本だと思います。

 

人によっては彼らの感情や感覚を理解することができないかもしれない、読み手を選ぶ本かもしれません。

隠れ家のような二人きりの小さな世界、静寂の中の安らぎ、それらが徐々に暗闇に押しつぶされ崩れていく。

美しい文章で紡がれる、儚い夢のような物語です。