仏教を味わう。

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仏教を聞き学ぶものです。
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「浄土真宗の教えにもとずく、5分の法話を作って下さい。法話を行う場所の設定は、長井さん44歳(わたし)が亡くなった後の、お通夜のお勤めの後です。」

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「承知しました。以下は、浄土真宗の教えに基づいた法話であり、長井さん(44歳)のお通夜のお勤め後という場面に合わせた、約5分程度の内容です。ご遺族や参列者の心にそっと寄り添いながら、阿弥陀さまの教えとつながるよう心がけて構成しました。

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皆さま、ただいまはご一緒にお勤めをいただき、ありがとうございました。
このひととき、お経の声とともに、私たちの心も長井さんへと向けられたことと思います。

本日は、44年という人生を歩まれた長井さんを偲び、ご縁をいただいております。
まだまだこれからというお年であり、私たちの心にも「もっと生きていてほしかった」「なぜこんなに早く」と、言葉にならない思いがあるかと思います。

私たちはつい、「生きることは良いこと」「死ぬことは悲しいこと」と、どうしても白黒をつけてしまいがちです。
けれども、仏教、特に浄土真宗の教えは、私たちの思いを超えた、もっと大きな命の見方を教えてくれます。

お経の中に「一切皆成仏(いっさい かい じょうぶつ)」という言葉があります。
すべてのいのちは、仏のさとりに向かって流れている、すべての命はそのまま尊いという教えです。

たとえ長さが違っても、人生の重みは長さで決まるのではありません。
長井さんが歩まれた44年は、ご家族やご友人、地域の方々と深く関わり、多くのご縁を結ばれた、かけがえのない年月だったと思います。

浄土真宗では、「死んだら仏になる」のではなく、すでに阿弥陀さまのはたらきに包まれている私たちが、亡くなると同時に仏とならせていただくといただきます。
長井さんは今、阿弥陀さまの浄土に生まれ、仏として私たちを見守ってくださっています。

そしてその仏さまは、悲しみの中にある私たちに、
「また会おう」「私はここにいるよ」と、静かに語りかけてくださっているのではないでしょうか。

私たちは今、確かに「別れ」という現実の前に立っています。
しかし、この別れは終わりではありません。
仏さまとして新たな形で私たちとつながり続けてくださる、そのご縁が今、結ばれているのです。

どうぞこれからも、仏さまとなった長井さんを想いながら、お念仏「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」を称えていただければと思います。
その念仏の声の中に、阿弥陀さまの願いと、長井さんのぬくもりが、きっと届いていることでしょう。

本日は、このようなご縁をいただきまして、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。

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※必要に応じて、言い回しをやわらかくしたり、地域の慣習に合わせた形にも調整できます。お気軽にご希望をお知らせください。

 

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「どの川も流れ終われば安かな海となる、という考えを入れた別のバージョンを作って下さい。」

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かしこまりました。「どの川も流れ終われば安らかな海となる」というたとえを中心に据え、浄土真宗の教えと調和するかたちで、心に残るやさしい法話を5分ほどでお届けできるよう構成しました。お通夜のお勤め後にふさわしい、静かな語り口調を意識しています。

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皆さま、本日は長井さんのお通夜にご参列いただき、誠にありがとうございます。
ただいまのお勤めを通じて、ご一緒に心を寄せていただけたことに、深く感謝申し上げます。

さて、お経の中には「海」という字がよく出てまいります。
それは仏さまの教えを、大きく深い「命の海」にたとえているからです。

人生はよく「川」にたとえられます。
長い川もあれば短い川もあり、まっすぐな川もあれば曲がりくねった川もあります。
川の流れ方はそれぞれ違っても、どの川も最後には一つの大きな海にたどり着きます。
それはまるで、どんな人生であっても、最後には仏さまの世界という安らぎの海に受け入れられていく、という仏教のまなざしそのものです。

長井さんの人生も、44年という川の流れを精いっぱいに生き抜かれました。
その流れの中には、ご家族との時間、仲間とのつながり、そして努力や思いやりといった温かな流れが、たくさんあったことと思います。

私たちは、つい「もっと長く生きてほしかった」「まだこれからだったのに」と、別れの悲しみに心を奪われてしまいます。
けれども仏さまは、「その命はすでに十分に尊く、満ちていたのですよ」と教えてくださいます。
そして、流れ終えた命はそのまま、阿弥陀さまの大きな慈悲の海、浄土へと受け取られていくのです。

浄土真宗では、私たち一人ひとりが、すでに阿弥陀さまのはたらきの中に生かされていると説かれます。
そして、命を終えたときには、すぐに仏となって、今度は私たちを見守る側へと移ってくださる。
つまり、別れは終わりではなく、つながりのかたちが変わるだけなのです。

長井さんは、今ここにそのお姿は見えませんが、仏さまとして私たちのそばにいてくださる。
南無阿弥陀仏とお念仏を申すたびに、そのつながりが確かなものとして感じられてまいります。

どうか、これからの日々の中でも、阿弥陀さまのお慈悲と、長井さんのぬくもりを感じながら、念仏の道をご一緒に歩ませていただければと願います。

本日は、このようなご縁をいただきまして、誠にありがとうございました。

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さらに柔らかい語り口、方言まじりの表現、あるいは3分程度の短縮版もご希望があれば承ります。

 

 

 

平成24(2012)年1月9日にお勤まりになりました、

ご本山本願寺における親鸞聖人報恩講法要。

 

この報恩講の中では、

即如上人が改悔批判をお勤め下さいました。

 

大変学びになりますので、下記に記させていただきます。

 

本日の御逮夜から16日の御日中まで、宗祖親鸞聖人の御正当報恩講が勤修されています。この度の報恩講は宗祖750回大遠忌法要御正当にあたり、50年に一度の法要になります。わたくしは今から31年前、一度改悔批判を勤めました。それは門主継職の奉告披露にあたります伝灯奉告法要の翌年でした。大遠忌の年に二度目を勤めることができますこと、誠にありがたく思います。

親鸞聖人が書かれました「顕浄土真実教行証文類」すなわち「教行信証」は、浄土真宗の根本聖典であり、「御本典」といわれます。「教行信証」では、総序に続く教巻、行巻、信巻、証巻、真仏土巻、方便化身土巻の一部六巻によって、真宗の教義が詳しく述べられています。

始めの教巻に「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり」と、真宗の大綱を述べられます。また証巻に、「二つには還相の回向と言うは、すなわちこれ、利他教化地の益なり。すなわちこれ、必至補処の願より出でたり。また一生補処の願と名づく」と還相の利益が述べられています。すなわち浄土真宗は往相回向と還相回向の二種回向から成り立っています。行巻の終わりにある「正信念佛偈」には、「往還回向由他力、正定之因唯信心」、往還の回向は他力による、正定の因は唯だ信心なりと示され、往還二回向ともに、阿弥陀仏の本願力回向、他力回向のはたらきによります。すなわち、わたくしたちが浄土へ行き生まれて悟りを得ることも、そののちに還相の菩薩として迷いのこの娑婆世界に帰って人々を救うことも、阿弥陀仏のはたらきに依るのであります。また、浄土へ往生することが、まさしく決定するのは、ただ本願力回向の信心によるのです。往相回向には真実の教行信証の四法があり、還相回向では利他教化地の利益が述べられます。すなわち、真実の教は大無量寿経、真実の行は南無阿弥陀仏、真実の信は他力信心、真実の証は証大涅槃を示し、また利他教化地の利益とは衆生を救済するはたらきであります。

 

親鸞聖人の説かれました浄土真宗の教えは、信心正因、称名報恩と言われます。これは南無阿弥陀仏の名号の謂れを聞いて、阿弥陀仏より賜る信心が往生浄土の正因であり、その上の称名念仏は仏恩報謝の心であることを示しています。今までは自分の存在を「生まれてから死ぬまで」という枠組みの中でしか考えられなかったわたくしたちの死生観、人生観を破って、生と死に新しい意味と方向を与えてくださるのが本願力回向のはたらきなのです。その躍動的な往相還相のはたらきに身を委ねることによって、わたくしたちは念佛生活の中で生死を超えて往生浄土への道を歩むことになり、死ということを浄土での悟りを開くご縁と受け取ることができるのです。このことが浄土真宗にあってお救いにあずかるといわれるのです。
 

さて、この御座は改悔批判の御勝縁でありますので、御参集の皆さま、各々異口同音に改悔出言なさってください。



(一同領解出言)

「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ」。



ただいま出言されました通り、心底に深く領解され、御心と御言葉が異ならないならば、誠に目出度いことでございます。

さて、領解された御文は安心、報謝、師徳、法度の四段から成っております。


第一段の安心は「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」と示される文であります。安心とは信心のことで、浄土真宗の信心は自力の信を離れて阿弥陀仏の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他の信心であります。

雑行は正行に対する言葉です。善導大師は往生の行を正行と雑行に分けられました。正行は浄土に向かって行ずる行で、読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五正行です。称名は正定業、正しく往生が決定する行業で、他の四行は助業、称名念仏に付き従う行業です。雑行は本来この世で悟りを目指す行でありますが、それを往生行にするため、雑行と言われたのです。親鸞聖人は高僧和讃、善導讃に、「こころはひとつにあらねども、雑行雑修これにたり、浄土の行にあらぬをば、ひとへに雑行となづけたり」と詠まれています。次に雑修とは専修に対する言葉で、善導大師や源空聖人は正行を修することを専修といい、雑行を修することを雑修と述べられます。すなわち善導讃に「助正ならべて修するをば、すなはち雑修となづけたり、一心をえざるひとなれば、仏恩報ずるこころなし」と詠まれて、正定業である称名念仏と、助業である前三後一の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養を同格にみなして修することを雑修と名付けられています。また同じく「仏号むねと修すれども、現世をいのる行者をば、これも雑修となづけてぞ、千中無一ときらはるる」と、称名念仏を専修していても現世利益を求める者は、これも雑修とされています。両和讃の内容はともに浄土に往生できないと述べられます。また親鸞聖人は「教行信証」の方便化身土巻の終わりに、ご自身が「雑行を捨てて本願に帰す」と述べられます。すなわち雑行を捨てて五正行のなかで選択された称名正定業を受け、第18願の称名念仏に帰すると示されています。

続く自力の心について、親鸞聖人は曇鸞大師が著わされた「往生論註」の自力他力の教判を継承されて、次のように述べられます。「一念多念文意」に「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」と記されています。また「教行信証」行巻の他力釈には、「他力といふは如来の本願力なり」と示されます。これによって自力とは自己のはからいでもって往生浄土を望むことで、雑行雑修はこの自力の信に起因するものであります。すなわち「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」は自力無効、本願他力に帰することを述べられます。続いて領解文には「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」と示されます。これはわたくしたちがふたごころなく、阿弥陀仏を信じ、この度の一大事である往生浄土について、必ずおたすけくださると心よりたのみ任せる信心を明らかに示されています。


次の第二段の報謝は「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ」であります。親鸞聖人は「正信念佛偈」の龍樹讃に「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定、唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」、弥陀仏の本願を憶念すれば自然に即の時に必定に入る、唯だ能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしと言えりと、龍樹菩薩の遺徳を讃えられて、信心正因、称名報恩の義を述べられています。

また蓮如上人は和歌にこの「正信念佛偈」四句の内容を詠まれました。「御文章」四帖目第四通に弥陀の本願に知遇されたことをよろこばれ、その気持ちを三首の歌に詠まれています。



「ひとたびもほとけをたのむこころこそ まことののりにかなふみちなれ」。



この第一首の歌は弥陀の本願を信ずる一念帰命の信心が決定する姿を詠まれています。



「つみふかく如来をたのむ身になれば のりのちからに西へこそゆけ」。



第二の歌は罪悪深重の凡夫は弥陀を深く信ずる者となった時に、すぐに現生において正定聚のなかまに入り、やがて必ず浄土に生まれて悟りを得ると詠まれています。



「法をきくみちにこころのさだまれば 南無阿弥陀仏ととなへこそすれ」。



第三首の歌は慶喜がともない金剛のように固い信心が決定した上は、仏恩を知ってその徳を報ずるばかりであると詠まれています。そしてその後に蓮如上人は他力の信心を得たならば、一方ではこの三首の歌を口ずさんで仏恩報尽の務めになると思われ、他方ではその歌を聞く人が宿縁によって同じ心になるのでないだろうかと思われて上讃仏徳下化衆生、すなわち上に仏徳を讃じ、下に衆生を化すの意を述べられています。さらにこの三首の歌は讃仏乗の縁、転法輪の因、すなわち仏法を讃える縁や、仏法を弘める因となるので、後に見る人はあえてこれを身勝手に謗ってはならないと強調されています。


第三段の師徳には「この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ」と示されます。浄土真宗のみ教えは親鸞聖人によって開かれたものです。煩悩具足のわたくしたちが阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えさせていただくことによって、往生成仏が必ず決定されると説かれています。その親鸞聖人の御恩徳を偲び、御恩に報謝するのが報恩講の重要な意義であります。そして親鸞聖人のみ教えを受け継いで、本願寺を中心にお念仏を伝えてくださいましたのが第三代宗主の覚如上人です。覚如上人は親鸞聖人の伝絵、御伝鈔と御絵伝を通して、聖人の御生涯を世に弘め、また口伝鈔や改邪鈔などを著わされて、信心正因称名報恩の真宗の教義を述べられました。さらに第八代宗主の蓮如上人は御文章を中心として多くの人々に平易なご勧化を行われました。わたくしたち愚鈍の身に深遠なお念仏のみ教えを領解できますことは、覚如、蓮如両上人の深重なる御恩によるものでございます。



第四段の法度は「このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ」と言われています。法度とは浄土真宗において定められている掟のことであります。信心の行者が日常生活において心がけ守るべきことがらで、生活規範を示されます。親鸞聖人は「末灯鈔」第19通、すなわち「御消息」第三通に「としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ」と述べられます。念仏して往生を願うことは自らの悪心を振り返って御同朋御同行の心をもって人々に接していくことになり、また世を厭うしるしとなると戒められています。さらに蓮如上人も「蓮如上人御一代記聞書」によれば「仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなり」と仏法中心の生活をすることを薦められました。





現代の混迷する社会において、わたくしたちはどのように生きたら良いでしょうか。親鸞聖人のみ教えと蓮如上人の御教化を通して念仏者のあるべき原点に立ち返り、「世のなか安穏なれ仏法ひろまれ」のお言葉を自らの生活のなかで実現させていきたいものであります。

 

 

 


 

 

 

平成24(2012)年1月9日にお勤まりになりました、

ご本山本願寺における親鸞聖人報恩講法要。

 

この報恩講の中では、

即如上人が改悔批判をお勤め下さいました。

 

この改悔批判の中には、

領解文についての説明があり、大変学びになります。

 

領解文について解説される部分のみ、

下記に記させていただきます。

 

 

 

さて、この御座は改悔批判の御勝縁でありますので、御参集の皆さま、各々異口同音に改悔出言なさってください。

 

(一同領解出言)

「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ」。

 

ただいま出言されました通り、心底に深く領解され、御心と御言葉が異ならないならば、誠に目出度いことでございます。

さて、領解された御文は安心、報謝、師徳、法度の四段から成っております。


第一段の安心は「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」と示される文であります。安心とは信心のことで、浄土真宗の信心は自力の信を離れて阿弥陀仏の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他の信心であります。

雑行は正行に対する言葉です。善導大師は往生の行を正行と雑行に分けられました。正行は浄土に向かって行ずる行で、読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五正行です。称名は正定業、正しく往生が決定する行業で、他の四行は助業、称名念仏に付き従う行業です。雑行は本来この世で悟りを目指す行でありますが、それを往生行にするため、雑行と言われたのです。親鸞聖人は高僧和讃、善導讃に、「こころはひとつにあらねども、雑行雑修これにたり、浄土の行にあらぬをば、ひとへに雑行となづけたり」と詠まれています。次に雑修とは専修に対する言葉で、善導大師や源空聖人は正行を修することを専修といい、雑行を修することを雑修と述べられます。すなわち善導讃に「助正ならべて修するをば、すなはち雑修となづけたり、一心をえざるひとなれば、仏恩報ずるこころなし」と詠まれて、正定業である称名念仏と、助業である前三後一の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養を同格にみなして修することを雑修と名付けられています。また同じく「仏号むねと修すれども、現世をいのる行者をば、これも雑修となづけてぞ、千中無一ときらはるる」と、称名念仏を専修していても現世利益を求める者は、これも雑修とされています。両和讃の内容はともに浄土に往生できないと述べられます。また親鸞聖人は「教行信証」の方便化身土巻の終わりに、ご自身が「雑行を捨てて本願に帰す」と述べられます。すなわち雑行を捨てて五正行のなかで選択された称名正定業を受け、第18願の称名念仏に帰すると示されています。

続く自力の心について、親鸞聖人は曇鸞大師が著わされた「往生論註」の自力他力の教判を継承されて、次のように述べられます。「一念多念文意」に「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」と記されています。また「教行信証」行巻の他力釈には、「他力といふは如来の本願力なり」と示されます。これによって自力とは自己のはからいでもって往生浄土を望むことで、雑行雑修はこの自力の信に起因するものであります。すなわち「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」は自力無効、本願他力に帰することを述べられます。続いて領解文には「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」と示されます。これはわたくしたちがふたごころなく、阿弥陀仏を信じ、この度の一大事である往生浄土について、必ずおたすけくださると心よりたのみ任せる信心を明らかに示されています。


次の第二段の報謝は「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ」であります。親鸞聖人は「正信念佛偈」の龍樹讃に「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定、唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」、弥陀仏の本願を憶念すれば自然に即の時に必定に入る、唯だ能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしと言えりと、龍樹菩薩の遺徳を讃えられて、信心正因、称名報恩の義を述べられています。

また蓮如上人は和歌にこの「正信念佛偈」四句の内容を詠まれました。「御文章」四帖目第四通に弥陀の本願に知遇されたことをよろこばれ、その気持ちを三首の歌に詠まれています。

 

「ひとたびもほとけをたのむこころこそ まことののりにかなふみちなれ」。

 

この第一首の歌は弥陀の本願を信ずる一念帰命の信心が決定する姿を詠まれています。

 

「つみふかく如来をたのむ身になれば のりのちからに西へこそゆけ」。

 

第二の歌は罪悪深重の凡夫は弥陀を深く信ずる者となった時に、すぐに現生において正定聚のなかまに入り、やがて必ず浄土に生まれて悟りを得ると詠まれています。

 

「法をきくみちにこころのさだまれば 南無阿弥陀仏ととなへこそすれ」。

 

第三首の歌は慶喜がともない金剛のように固い信心が決定した上は、仏恩を知ってその徳を報ずるばかりであると詠まれています。そしてその後に蓮如上人は他力の信心を得たならば、一方ではこの三首の歌を口ずさんで仏恩報尽の務めになると思われ、他方ではその歌を聞く人が宿縁によって同じ心になるのでないだろうかと思われて上讃仏徳下化衆生、すなわち上に仏徳を讃じ、下に衆生を化すの意を述べられています。さらにこの三首の歌は讃仏乗の縁、転法輪の因、すなわち仏法を讃える縁や、仏法を弘める因となるので、後に見る人はあえてこれを身勝手に謗ってはならないと強調されています。


第三段の師徳には「この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ」と示されます。浄土真宗のみ教えは親鸞聖人によって開かれたものです。煩悩具足のわたくしたちが阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えさせていただくことによって、往生成仏が必ず決定されると説かれています。その親鸞聖人の御恩徳を偲び、御恩に報謝するのが報恩講の重要な意義であります。そして親鸞聖人のみ教えを受け継いで、本願寺を中心にお念仏を伝えてくださいましたのが第三代宗主の覚如上人です。覚如上人は親鸞聖人の伝絵、御伝鈔と御絵伝を通して、聖人の御生涯を世に弘め、また口伝鈔や改邪鈔などを著わされて、信心正因称名報恩の真宗の教義を述べられました。さらに第八代宗主の蓮如上人は御文章を中心として多くの人々に平易なご勧化を行われました。わたくしたち愚鈍の身に深遠なお念仏のみ教えを領解できますことは、覚如、蓮如両上人の深重なる御恩によるものでございます。



第四段の法度は「このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ」と言われています。法度とは浄土真宗において定められている掟のことであります。信心の行者が日常生活において心がけ守るべきことがらで、生活規範を示されます。親鸞聖人は「末灯鈔」第19通、すなわち「御消息」第三通に「としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ」と述べられます。念仏して往生を願うことは自らの悪心を振り返って御同朋御同行の心をもって人々に接していくことになり、また世を厭うしるしとなると戒められています。さらに蓮如上人も「蓮如上人御一代記聞書」によれば「仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなり」と仏法中心の生活をすることを薦められました。

 

 

現代の混迷する社会において、わたくしたちはどのように生きたら良いでしょうか。親鸞聖人のみ教えと蓮如上人の御教化を通して念仏者のあるべき原点に立ち返り、「世のなか安穏なれ仏法ひろまれ」のお言葉を自らの生活のなかで実現させていきたいものであります。