一昨日のイメージスキャニングのお茶会でも
「自我って何なんですか?
なんであるんですか?」
という質問があり、ゆにこ的には自我の機能は
「過去の集積データ」と説明したけど、
なぜ過去のデータを
いつまでも保持しているの?
そこに何のメリットがあるの?
ということに焦点をあててみたいと思います。
自我は哀しみのデータを沢山、蓄積しています。
哀しみデータの
蓄積ファイル自体が
自我という機能
なのかもしれません
なぜ哀しみを蓄積してるの?というと、
誰にも見つけれなかった
流されなかった井戸の涙
が哀しみの正体だからです。
本当は誰かに寄り添ってもらい、哀しみの中にある
データを愛で包んで取り出してあげると、
哀しみとしてデータは蓄積されないのですが
その〝誰か〟に
見つけられることも
〝寄り添って〟
もらうこともなく
起きたことを受容できないまま、
流されぬまま、見て見ぬふりしてやり過ごし、
放置してると、自我という機能に蓄積されます。
「おいおい、オマエ
見て見ぬふりかよ?
オメーそれでも愛か?
(y ゚Д゚)yひどくねえ?」
という、とりあえず一時処理してきた現象に対し、
自我が生まれます。
その〝放置された哀しみ〟は、
いくら見て見ぬふりをしていても、
悟っても、なくなることはありません。
釈迦やキリストが誕生して、誰かが気づいたところで、
戦争や犯罪がなくならないのは、そういう哀しみデータが
まだまだ膨大に集合無意識層にあるからです。
誰かが見つけて、寄り添うまで、
見て見ぬフリして、無我に徹したところで、
自然消滅することはないのです。
哀しみのデータたちは、肉体がなくなっても、
私たちの集合無意識
ファイルの中にたくさん
蓄積されています。
そこで〝自我〟という機能が登場します。
この〝放置された哀しみデータ〟を個別に
集積して一時的にストックしておくファイルです。
無意識層に沈んだまま、発見されなくなることを回避し、
見つけてもらいやすくする個別ファイルです。
このファイル自体は
哀しみがあることは
何となく感じているけど
今はまだ、それが何か
理解できず
寄り添うことが出来ない
でも一応ここに残しておく
という一時預かり的なデータファイルです。
つまり自我は
見て見ぬふりしてきた
データの一時預かり機能
とも言えます。
その瞬間、瞬間に解放されなかった集積データを、
一時預かりしておく場所です。
なので、エゴのデータが溜まり過ぎると、
爆発して自暴自棄になったり、誰かと険悪になったり、
事故や病気、犯罪など、あらゆる
〝預かり過ぎてデータパンク状態〟
のことが起きたりします。
〝自我(エゴ)〟の機能は
あぶないよ!
いっぱいだよ!!
ここにデータがあるよ!
という一種の愛のお知らせ機能です。
愛に今は直接引き渡すことは出来ないけど、
キケンを察知してそのデータを溜めておき、
いざという時にいつでも愛という親元に還せるように、
その哀しみたちのデータを保護している
〝迷子一時預かり所〟です。
なので、エゴはれっきとした
愛の機能の一部とも言えます。
ただ気づかず、そのまま放置してると肥大化して、
エスカレート行為や現象になるので、
こまめにメンテナンスして、自分の中にある哀しみを抱えた
〝迷子たち〟がいないかどうか?
いつでもデータ確認する作業が必要と言えます。
このデータがたくさん溜まっている人に、
いくら無我や悟りの世界観を薦めたところで、
その哀しみのデータは、捉え方が変わっただけで、
なくなるわけではありません。
そこを悟りや無我の概念で何度も打ち消したとしても、
あなたが抑圧して見て見ぬふりしたデータは、
体なり、人間関係なり、何かを通して現れ続けます。
どんなに深い哀しみを抱えた迷子たちが出てきても、
私たちは、いつでも、
それを迎えに行く
親であり
愛だということ
深い哀しみが私だったのではなく、
その哀しみに深く寄り添う愛が私だったということ。
そこに気づけば、どんな哀しみが出てきても
大丈夫だということがわかり、哀しみは、
〝いつでも愛がここにいるよ〟
ということを教えてくれる、
エゴの粋な愛の演出機能だったということがわかります。
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エゴを丸ごと包んでいる愛に気づく
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