〝前世は〇〇だったストーリー〟も
〝私が私である〟も
そもそも人間は何故
今の自分を証明させ
ようとすることに
躍起になるのか?
ということ。
そこに取り組む必要が、どこにあるのか??ということ。
〝自分がこうなったのは〟
〝これこれこういう経緯があったから〟
ということにしたいのか、
〝私は私以上にはなれないし
今の私でいいんだ
私はこのままでサイコー!〟
ということにしておきたいのか。
現時点で捉えたものを〝これが私〟と見定めて、
アレコレ決めつけることで、
安心したいのか、落ち着きたいのか?
なぜ現象の一部だけを切り取り
〝これがワタシだ〟と言いきれるのか?
湧いてきたデータを信じ込み
〝これはワタシです〟と言い切れるのか?
そこを「自分だと言い切りたくなる何か」
「自分だと信じてしまう何か」
に何かあると思わないのか?
そこに飛びつきたくなる自分、
こうであると決めつけたくなる自分
・・・・・・以前に、、、何かあるとしたら?
不安、自信のなさ、欠乏感、絶望感、焦燥感、
安心したい、落ち着きたい、自信を持ちたい、
今のままではダメだ、この先不安、、、
そんなモノを払拭させ、みなくてもいいようにするのが、
「私は私で有る」や「私は〇〇である」
というストーリーなのかもしれません。
自我は実体のない自分が露呈されるのを
極度に恐れるため、何かで自分を証明したがります。
それが経験(成功・失敗体験含む)であったり、
実績であったり、前世であったり、
今取り組んでいることであったり、
今の自分であったりと、色々とあの手この手を使って
〝これがワタシです〟
と証明したがります。
でも〝本当のワタシ〟は今ここで掴みきれるものではなく、
今ここで捉えられる、あらゆるデータやストーリーではなく、
とてつもなく大きく膨大で、決めつけることの出来ない
掴みきれない〝何か〟
その〝何か〟こそが本当の私であったと気づくまで、
〝私は〇〇ですストーリー〟は続くのかもしれません。
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