私たちは普段、色んなバイアスをかけて
物事を捉えて見ていたりする。
たとえば「24時間テレビが感動して泣ける」
という人もいれば
「あんな偽善番組、やらせじゃねーか!
何も感動しねぇ!」という人もいる。
それは自身の経験データから弾き出される
バイアスかもしれないし、
どこかで取り入れたデータかもしれない。
小さい頃からのイメージや環境、親や人間関係、
もっと無意識下にある色んなデータが複合的に混じり合って、
「感動して泣ける」か「やらせだ」になったりする。
私たちは色んな身の回りデータから、
自分に心地いいものには好意的バイアスがかかるし
(信用できる、いい人だ、感動する)
自分にとって不快なものには反感的バイアスがかかる
(信用できない、悪い奴だ、嘘つきだ)
どちらも行き過ぎるとバイアスにかかったものを
取り入れ過ぎたり、逆に排除しなくてはならなくなり、
偏った上でのアンバランスな
整合性を保とうとして、苦しくなる。
好き嫌いや、無意識の判断、識別も、
どこかでバイアスがかかっている場合がある。
無意識のバイアスをどこで見破るか?というと、
「無意識にそう思ってしまうこと、
そう反応してしまうこと」
を「むむむ?」と丁寧に見ていく。
イライラしてるとポテチをひと袋あけてしまうとか、
あの人の言動を聴くとザワザワするとか。
そういう体に現れる無意識の反応も視ていくと、
何かしらバイアスがかかっているものを
反射し避ける行為だったりする。
ポテチをひと袋あけてしまう行為も、
誰かの話にザワザワしてしまうのも、
実態のないものを、自身の偏ったバイアスで
捉え続け感じてることが原因で、
その代償行為に走るのかもしれない。
本当は触れたくもないこと
(不快なバイアスが残ったままのこと)
を無意識で感じている時、
目の前のポテチをひと袋開け、何かを口に入れることで
〝感じなくさせる〟という感覚になるのかもしれないし
大嫌いな人の話を聴くだけでイライラするのも、
今まで避けてきた「私を不快にする存在」という
無意識バイアスからの指令なのかもしれない。
無意識に引っ張られ続ける行為や、
同じところで同じ反応が立ち上がるものには、
何らかのバイアスを疑ってみる。
無意識にバイアスがかかるのは
「私がよりよく快適に
傷つかず生き延びるため」
バイアスをかけて世界を見続けている場合、
バイアス対象がその場では排除出来ても、
違うシーンで、その対象を彷彿させるものが、
別の対象になって現れることがある
(バイアスシーンの鞍替え)
嫌いなタイプの人を、その場ではうまく避けられたとしても、
違う場所で似たようなタイプに出逢ってしまったり、
自身にかかっているバイアスを一旦壊してみない限り、
一生そのバイアス越しの世界や出来事を覗くことになる。
バイアスがあること自体は悪いことじゃないが、
そのバイアスがある限り、
バイアスの向こうの世界や可能性は見れない。
自身が傷つかないように予防線を張った世界の中で、
こじんまりと自分をしまうことになる。
自分が傷つかないように生きる術は、
逆に傷つく反応パターンとなって
バイアスという形而上で生き残り続けることになる。
まずは、自分のバイアスがなんであるかに気づくこと。
外部から取り入れて信じている後天的なもの、
誰かが言った科学的根拠ないし、
自分の経験すらもバイアスの
材料になっている場合がある。
批判的に見てしまうこと、大嫌いなもの、大嫌いなタイプ、
見ないようにしてること、避けていること、盲心していること、
ポイントは
『それはこうなんだよっ』と
頑なに決めつけていること。
そういうところに、目の前のあらゆる可能性を
自ら制限して、外部をシャットアウトして
新しい世界に飛び込むことを躊躇している
バイアスが見つかるのかもしれない。
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