私は1942年4月に父の任地、満州国安東省荘河県明陽村で生まれました。

産婆が間に合わず、私を取り上げた父は「僕にそっくりだよ!」と母に言ったそうです。

 

その後、父がソ満国境に配備された国境警察隊の黒河省金山鎮中隊に配属されたため、家族も同地に従ったのですが、1943年秋に父は妹を身ごもった母を帰国させる決断をしました。

 

父はソ連軍が満州に侵攻した1945年8月9日に戦死したものと推定されます。

中隊は中国人主体の編成で、生き残った2名の日本人隊員も1名は出張中、1名は家族と避難したため、父を含む残り3名の日本人隊員の死亡は確認されていないのです。

 

父は「私は捕虜にならないし、家族も捕虜にはさせない」と母に話していたので、父の決断がなければ私たちは生きてはいなかったでしょう。

 

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高校に入学すると、中距離選手を目指して陸上部に入部しようと考えていたのですが、気まぐれに選んだのは柔道部でした。

 

柔道に階級制などなかった時代で、痩せて50kgそこそこの私には最も不向きなスポーツです。

 

初段の試験に一度だけ挑戦したのですが、得意の小内刈りは不発で不合格となり、白帯で3年間を過ごすという情けない部員でした。

 

尾道北高等学校:ホームページより

 

70歳のとき、スポーツジムからの帰り道に電動自転車を走らせていました。

車の通行は稀な住宅街です。

 

殆ど減速しないで差し掛かった交差路で乗用車の側面に激突し、数メートル飛ばされてコンクリート面に叩きつけられました。

 

救急車で病院へ運ばれたのですが、検査で見つかったのは軽度の頚椎損傷だけで、腕の痺れは2ヶ月のリハビリで全治しました。

 

無意識のうちに柔道の受け身で着地したとしか考えられません。

 

総合大雄会病院より

 

高校の同級生だった妻は2年間の闘病の末に69歳で亡くなりました。

 

暫くして受けた定期健康診断に念のため上部内視鏡検査加えたところ、食道がんの兆候が見つかったのです。

3ヶ月後に癌化していることが確認され、内視鏡による切除手術を受けました。

 

妻が亡くならなければ、上部内視鏡検査をしようとは思わなかったはずで、妻に託された命でもあります。

 

妻と私

 

考えた上の決断だけでなく、何気ない選択や偶然によっても私の命は救われていたのです。

それだけでなく、多くの人に出会い、私は生かされているのだと気づかされました。

 

満州から引き上げて住んだのは母の養家があった瀬戸内の小さな島です。

 

小学校6年のときの担任は特攻帰りで、情熱に溢れる先生でした。

毎日が活気に満ちた授業で、宿題もグループ学習が中心です。

同じ地区に住む生徒数人で手分けして調べた結果をまとめ、翌日に皆の前で発表して、討論します。

 

養母が亡くなり、実母が困っていることを知った母は、1955年の春に養父を伴って島を出ることを決め、尾道で実母を加えた新しい生活が始まりました。

 

入学したのは1学年7クラスもある中学校でしたが、特攻先生に学んだ私は決して気後れはしませんでした。

 

佐木島:TABIRINより

 

高校に進学すると、1年のクラス担任は陸王にまたがって颯爽と通勤する社会科の先生でした。

 

私は母子家庭の次男なので、働きながら夜間大学に行くしかないと思っていたところ、家庭の事情を知った先生が大学までの特別奨学生に推薦してくれたのです。

 

アルバイトは続けましたが、私が希望の大学で学ぶことができたのは、陸王先生に出会えたからです。

 

練習帆船日本丸:港未来博物館より

 

母が父の戦死の公報を受け取ったのは、死後8年経過した1953年5月、35歳のときです。

 

年老いた養父母と3人の子供を抱えて苦労している母を見かねた親戚が、私を養子に出せと別室で母を説得しているのを複雑な気持ちで窺っていた記憶があります。

 

母がどう言って断ったのかは分かりませんが、親戚が養子の話を持ち込むことは二度とありませんでした。

 

満州国警察官であった父

 

私は受験勉強が嫌いで、正答率の低い入試問題が出される国立大学の一期校は当然のごとく不合格でした。

 

二期校に受からないと特別奨学生の資格を失うので、嫌いな受験勉強もせざるを得ません。

思わず母に「こんなことは素面ではやってられない!」と愚痴をこぼしてしまいました。

 

翌日、学校から帰ると、机の上に日本酒の4合瓶が置いてあったのです。

母の四合瓶がなければ、私は二期校の商船大学にも合格できていなかったでしょう。

 

 

3人の子供が独立すると、歌と踊りが得意な母は日本舞踊の資格を取り、約20名のお弟子さんに87歳になるまで教え、99歳まで生きました。

 

月謝で毎日のお茶とお菓子を用意し、年1回は発表会を開き、中国残留孤児の支援ができるのが嬉しいと言っていた母の笑顔が思い出されます。

 

尾上菊右佐:朝日新聞デジタルより