80代になると、体力が低下していくことを日々実感します。

 

それは想像していた以上に急激なので、落胆して気力も減退し、無気力な毎日を送りがちです。

 

加齢に伴う体力の変化(男性)(厚労省)


 

「老化を死に至る衰退現象としてではなく、人生における成熟現象として捉える」というのが、1991年の国連総会で採択された「高齢者のための国連原則」の基本理念です。

 

この言葉に出会って以来、私の生きる指針になっていますが、最近は何度も挫けます。



 

先日、全身の筋肉が徐々に衰える難病ALSを患う青年が、糸満市で講演会を開き自身の闘病体験や今後の夢などについて語ったというニュースを読んで、ビンタを張られたような衝撃を受けました。

 

2年前に発症して、生きられるのは3ー5年だと宣告された青年が、自分だからできることをやろうと、難病の患者やその家族が安心して過ごせるように訪問介護事業を立ち上げると語っていたのです。


沖縄テレビより

 

高齢だからできることは何だろうか?

 

高齢になって得ているものはあるのだろうか?

 

断片的に薄々感じてはいたことですが、実はこの上ない状況を得ているのだと初めて認識しました。

若い頃には望んでも決して得られなかったものです。

 

1、生活の負担が軽い

2、束縛されるものが少ない

3、自由な時間が多い

4、経済的な自由度が大きい


かいごガーデンより

 

人生で初めて縛られるものが少なく、より自由な状況にあるのです。

さらなる成熟に向かうためにこれ以上の状況はないでしょう。

 

ただ漫然と生きてきた過去の自分を振り返ってみました。

 

海運会社の契約専門職員としてマニラで働いていた67歳のときに妻は発病し、2年間の闘病の末に亡くなりました。

 

アメリカ在住の娘は子供は一人(男児)で十分だと思っていたようですが、病気の妻に孫娘を見せてやりたいと、希望通り女児を出産して妻を喜ばせました。



 

二人の子供を育てるためにフルタイムで働きたいと娘が言ったとき、私は彼女の心意気に応えて、孫たちが少し大きくなるまで同居することを決めました。

 

アメリカでは13歳未満の子供を鍵っ子にすることは法律で禁じられています。

保育所、プリスクール、小学校と年齢に応じて預かってもらうところはあっても、病気や緊急時の対応に私がいれば、娘夫婦は安心して働けます。



 

東京のマンションを処分し、ビザを取得して、アメリカに移住したのは私が71歳のときです。

 

3年後に孫たちが10歳と5歳になると病気は殆どしなくなり、私の役目は終わりました。



 

料理の苦手な私は75歳くらいになったら長野県の温泉地にある高齢者施設に入所しようと漠然と考えていたのですが、高齢のアメリカ人の生き方を見て考えが変わりました。

 

74歳になった私が次に向かったのはフィリピンです。

メイドとケア・ギバーの支援を得て、最後まで社会との関わりを持ちながら自宅で暮らそうと思ったのです。


ネグロス・オリエンタル州ドゥマゲテ市

 

ネグロス・オリエンタル州のドゥマゲテで体制が整いつつあった頃、パートナーのLaiと出会いました。

 

シングル・マザーの彼女は大学生の息子と高校生の娘を育てるために奮闘していました。

 

市立病院の看護師と知り合いの医師が経営する整形外科医院とを掛け持ちして、子供達に少しでも良い教育を受けさせようとしている彼女をサポートしたいと思ったのが、私が同棲を決断した理由です。



 

娘やパートナーの心意気に感じて行動したり、フィリピンへ移住できたのは、私が高齢で束縛の少ない状況にあったからでしょう。

 

思ったように生きたとは言えそうですが、成熟したかと問われればそれは大いに疑問です。

体力の低下ごときで挫けているのですから。


 


 

ジェンサンでLaiと暮らすようになって6年が経過し、81歳になりました。

 

息子のNormanは4年前に、娘のDianneは今年7月に大学を卒業したので、生活費にも若干の余裕ができます。

 

先に挙げた4項目が改めて揃ったことになります。



 

これからは体力と気力だけでなく、知力の低下も加速するでしょう。

 

しかし、新たに認識した状況と沖縄の青年のビンタが私を前に向かわせてくれそうです。