私は満州国の警察官であった父の任地で生まれましたが、父は1943年の秋に妹の出産を控えた母と子供二人を帰国させる決断をし、私たちは生き延びることができたのです。

 

国境警察隊に配属されていた父は、ソ連軍が満州に侵攻した1945年8月9日に32歳で戦死しました。

 

 

私たち家族の歴史と高校時代に読み漁った満州に関する本から得た情報によって、私の戦争観は形成されました。

 

人類が戦争を無くそうとする努力を始めてから120年、日本国憲法はその終着点に位置付けられるものです。

しかし、憲法解釈の変更だけで世界第5位の軍事大国になり、集団的自衛権の行使を認め、さらには反撃能力の保有を決定して、今や日本の安全保障政策は憲法はおろか国連憲章の原則さえ逸脱しています。

 

政府が憲法第9条の改正を目論んでいる現在、私の戦争観を改めて検証するため、太平洋戦争へと続く一連の戦争の跡を辿りました。

 

1、満州事変(前編)

2、日中戦争(前編)

3、仏印進駐(前編)

4、太平洋戦争(後編)

 

東京新聞より

 

1、満州事変

15年戦争、あるいはアジア・太平洋戦争とも呼ばれる太平洋戦争へと続く一連の戦争は、1931年9月の満州事変から始まった。

 

日露戦争の講和条約で、南満州鉄道(長春ー旅順)とその付属地の租借権、関東州の租借権などが譲渡され、南満州は日本にとって重工業原材料の供給地、有望な投資先、重要な製品市場となり、日本の生命線として重視されていた。

 

また、1930年の昭和恐慌で多くの農民が貧困に喘ぐようになり、広大な満州こそが彼らの受け皿になると考えられるようになった。

 

満州鉄道本社:満州鉄道より

 

鞍山製鉄所:図書刊行会より

 

満蒙開拓平和記念館より

 

1928年に奉天軍閥張学良が蒋介石の国民政府に合流すると、満州でも帝国主義国利権の回収運動や日本製品排斥運動が激化した。

 

さらに、国民政府が満鉄並行路線の建設を計画するなど、日本の権益の基盤が脅かされる状況となったため、関東軍は南満州鉄道の線路を密かに爆破して、その爆破事件を口実に全満州を占領し、1932年3月に満州国を設立した。

 

同年5月、軍人によって首相が暗殺された五・一五事件が起きて政党政治は終わりを告げ、日本政府は軍部の圧力に屈して満州国を承認した。

 

中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴し、1932年2月に国際連盟は南満州鉄道の権益は除外したが、日本軍の満州からの撤退を可決したため、日本は同年3月に国際連盟を脱退した。

 

Wikimediaより

 

2、日中戦争

満州国の建国後も、関東軍は防共を大義名分とする華北分離工作を進めていたが、1937年7月の盧溝橋事件、さらに8月の第二次上海事変から日中両軍は全面的な戦争へと拡大していった。

 

日中戦争勃発を受けて、中国国民党と中国共産党は1937年9月に抗日民族統一戦線を結成し、全民族的な抗戦体制が初めて成立する。

 

日本軍は南京、広州、武漢など多くの都市を占領したが、国民政府が重慶に撤退してイギリス、フランス、アメリカの支援を受けながら抵抗したため、日中戦争は太平洋戦争終戦まで終結することはなかった。

 

日本史詳説より

 

満州事変から太平洋戦争までの中国の犠牲者は1,000万人以上とされている。

 

戦闘による犠牲者だけでなく、次のような虐殺事件、空爆、強制労働などで膨大な数の軍人、民間人が犠牲となった。

 

 

 

中国人強制労働者の遺骸が遺棄された万人坑:E-wave Tokyoより

 

3、仏印進駐

(1)仏印北部進駐

日本軍は膠着した日中戦争の打開策として、イギリス、フランス、アメリカの支援ルート(援蒋ルート)のうち最も重要な仏領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)のハイフォンと中国の昆明を結ぶ鉄道ルートを遮断する機会をうかがっていた。

 

1939年9月に第二次世界大戦が始まり、1940年5月にフランスがドイツに降伏すると、同年9月に仏領インドシナ北部に進駐したが、アメリカは直ちに進駐を承認しないとの声明を発表した。

 

また、進駐の直後に日本が日独伊三国同盟を締結したため、アメリカは屑鉄などの資源の対日輸出を禁止してこれに対抗し、両国は対決姿勢を強めていく。

 

Wikipediaより

 

(2)仏印南部進駐

アメリカとの対決姿勢が強まる中で、錫、天然ゴム、石油、鉄鉱石、ボーキサイトなどの資源が豊富な英領マレー(マレーシア、シンガポール)、蘭領東インド(インドネシア)を獲得しようという南進論が強まった。

 

南方作戦のための前進基地とするため、1941年7月に日本が仏領インドシナ南部まで軍を進めると、日米関係は一挙に悪化する。

 

アメリカは在米日本資本の凍結、対日石油輸出の禁止に踏み切り、イギリス、オランダもこれに倣った。

 

そして、日独伊三国とアメリカ、イギリスの対立は決定的となったのである。

 

日本軍のサイゴンへの進駐:日本軍資料より

 

ーーー後編に続く