太平洋戦争におけるフィリピンの戦いは、1945年9月3日に日本軍がアメリカ軍を主力とする連合国軍に降伏して終戦を迎えました。

 

日本軍はフィリピンで外地最多の52万人の戦死者を出しましたが、フィリピン人の戦死者は111万人(民間人90万人)に上り、多くの捕虜虐待や民間人への残虐行為があったため、日本軍と日本人に対する激しい怒りと報復感情をフィリピン人に残したのです。

 

日本軍の降伏:Wikimedia Commons

 

バターン死の行進:Livescience

 

日本兵の銃撃により殺害された家族:Malacanang Palace Museum

 

日本が受諾したポツダム宣言に基づいて開かれたマニラ・フィリピン軍事裁判は1949年12月28日に次の判決を下して、日比両国間の戦後が始まったと言えます。

 

しかし、国民の激しい報復感情が渦巻く中で、フィリピン政府が裁判における公平と正義の実現を目指した一方で、日本側では「復讐裁判」「報復裁判」であるという見方が一般的で、日比の侵略戦争や戦争犯罪への認識の深刻なすれ違いは残ったままでした。

 

 

マニラ軍事裁判:Wikimedia Commons

 

マニラ市街戦下の1945年2月9日、エルピディオ・キリノ(後のフィリピン共和国第二代大統領、1948−1953年)は日本兵の銃撃により妻子4人と親族5人を失いました。

 

それから8年後の1953年7月、キリノ大統領の恩赦により、モンテンルパ刑務所に収容されていた日本人戦犯105名(うち死刑囚56名)は減刑(死刑囚を無期懲役に)のうえ日本に送還され、さらに同年12月末、巣鴨刑務所で服役していた全戦犯が釈放されました。

 

キリノ大統領の恩赦決断には、賠償交渉などの思惑が作用した可能性はありますが、彼自身は「戦争被害者である私自身が彼らを許すことにより、国民が将来の友人となるかもしれない人々への憎しみを断ち切り、我が国の永続的な利益となることを願った。」と述べています。

 

キリノ大統領:Official Gazette of the Philippines

 

フィリピンは1946年7月4日にアメリカから独立し、日本も1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して独立しました。

 

同年に日本政府マニラ在外事務所が開設されて、翌53年に日比両国間で戦時賠償交渉が開始されます。

両国の主張に大きな隔たりがあったため、総額5億5千万ドルを20年間にわたって支払うという内容で合意されたのは3年後です。

 

フィリピン独立:GOVPH

 

サンフランシスコ講和条約調印:アメリカ大使館資料

 

1956年7月23日に両国間で平和条約及び賠償協定が発効しました。

同時に両国大使館が開設されて、太平洋戦争後の国交が回復されたのです。

 

賠償のために調達された日本製品や機材が、フィリピンの民間産業と政府部門に投入されて、これが日本からフィリピンへ物資が輸出される「呼び水」となり、後に「賠償から商売へ」と呼ばれる契機となります。

 

対比戦時賠償:外務省資料

 

日本のフィリピンに対する政府開発援助(ODA)は1968年の有償資金協力による日比友好道路計画(108億円)から始まりました。

 

1971年の第一次円借款(234億円)を皮切りに円借款によるフィリピンの経済インフラ整備が継続され、その額は次第に増えて1990年の第17次円借款は1,985億円に達しています。

 

これらの援助は全て紐付きで、日本企業の海外事業展開に大きく貢献しました。

 

対比政府開発援助実績:外務省資料

 

両国間の人の交流は、国交が回復した1956年に始まりました。

 

戒厳令体制下の70年代後半までに日本の対比貿易、直接投資、政府開発援助(ODA)などが急速に増加して、フィリピンでの経済的な地位がアメリカに匹敵するようになると、日本人観光客のフィリピン旅行ブームが起こります。

 

豊かになった日本人男性の欲求が東南アジア各地へ向かった時期で、特にフィリピンでは「買春ツアー」と呼ばれるようになり、現地で批判の声が高まりました。

 

読売新聞

 

そして、80年代に入ると、フィリピンからのエンタテーナー(主として女性)の出稼ぎブームが湧き上がります。

 

日本政府が一定の条件は課しながらも入国を認めたため、彼女たちはシンガーあるいはダンサーとして来日して、「ジャパゆきさん」と呼ばれながら夜の街で働きました。

 

アメリカ政府から「人身売買」の警告を受けるまで、およそ20年間続きました。

 

ミドルエッジ資料

 

バブル期に労働力不足が顕著になると、日本政府は1993年に技能実習制度を導入し、「技能実習」の在留資格で外国人が報酬を伴う実習を行うことができるようになります。

 

在留期間は当初の2年から、1997年には3年に延長されました。

 

アーバン協同組合資料

 

日比経済連携協定は貿易及び投資、人の移動、ビジネス、人材養成など幅広い分野についての協定で、日本で不足している看護師・介護福祉士を実習生として受け入れる道を開きました。

 

2004年11月に両国政府で大筋合意されたのですが、国際労働市場にしばしば見られる「人身売買」となることを懸念したアロヨ大統領は批准を先延ばしして、発効したのは2008年12月です。

 

 

 

少子化による労働力不足が深刻になると、日本政府は低賃金の外国人労働者を確保するため、矢継ぎ早に技能実習制度を拡充し、特定技能制度を導入しました。

 

特定技能2号だけは3年毎の更新による長期滞在と家族帯同(条件あり)が可能ですが、職種が限定されるため未だ実施事例はありません。

 

 

JITCO資料

 

法務省資料

 

日本政府の経済・地域開発への援助と、フィリピン全島に431の合同慰霊碑を建立した日本の遺骨収集団・慰霊団、JICA海外青年協力隊、NGO、NPOなどの根気強い草の根活動によって、戦後の日比友好関係は築かれているものと思っていました。

 

しかし、戦後の両国間の出来事を注意深く見ていくと、日本人のアジアに対する差別意識は未だに継続しており、フィリピンは紐付き援助の仕組み先、さらには低賃金出稼ぎ労働者の供給源となっている実態が浮かび上がってきます。

 

外務省資料

 

フィリピン・日本戦没者合同慰霊碑:フィリピン戦没者慰霊碑保存協会資料

 

JICA資料

 

フィリピン政府は国民の激しい報復感情の中で戦犯裁判における公平と正義の実現を目指し、キリノ大統領は自らが戦争犠牲者でありながら恩赦を決断して、国民に将来の友人となるかもしれない人々への憎しみを断ち切るよう呼びかけました。

 

「民主主義、平和、人間の尊厳を基盤とした両国の友好関係を築きたい」と願った彼らの思いに、果たして私たち日本人は応えていると言えるのでしょうか?

 

 

参考文献

(1)「フィリピンと対日戦犯裁判 1945−1953年」永井 均 広島市立大学教授

(2)「フィリピンの日本人戦犯の記録について」永井 均

(3)「日比関係の50年を振り返るー人流のさらなる進展に向けて」津田 守 大阪外語大学教授