フィリピンに住んでいると、年配のフィリピン人から日本軍兵士の残虐行為について話を聞くことがあります。

 

先日もゴルフ練習場で一休みしていると高齢のフィリピン人男性から話しかけられました。

日本人だと自己紹介すると、彼が小学校低学年のときに目撃した日本軍兵士の残虐行為について語り始め、中でも女性に対する行為のくだりは耳を塞ぎたくなるような内容でした。

 

日本軍兵士に殺害されたフィリピン人母子:U.S. National Archives資料

 

太平洋戦争による日本人戦死者は軍人・軍属230万人、民間人80万人、合計310万人です。

 

外地ではフィリピンで最多の日本人戦死者を出しており、その数は52万人に上りますが、フィリピン人の戦死者は111万人(民間人90万人)とされています。

 

東京新聞資料

 

フィリピンでの勝利を確信していたアメリカ軍は、日本軍将兵の戦争犯罪について聞き取り調査を基に克明な記録を残していました。

 

連合国によって布告された国際軍事裁判所条例は戦争犯罪を次のように分類しています。

 

戦争犯罪類型 戦争犯罪の内容

A項     平和に対する罪(戦争指導者を対象)

B項     通例の戦争犯罪(捕虜虐待など)    

C項     人道に対する罪(一般の国民に対する非人道的行為)

 

バターン死の行進:Livescience資料

 

日本軍兵士の銃撃により殺害されたフィリピン人家族:Malacanang Palace Museum資料

 

終戦後にマニラで開かれたアメリカ軍による日本のBC級戦争犯罪人に対する軍事裁判は1945年10月8日に始まり、その後、独立したフィリピン政府に引き継がれて1949年12月28日に次の通り最終判決を下しました。

 

起訴:151名

   陸軍将兵(軍司令官から一等兵まで)80%

   海軍将兵、通訳(民間人)20%

死刑:79名

終身刑:31名

有期刑:27名

判決不承認:1名

無罪:13名

 

アジア・太平洋地域の49都市で開かれたBC級戦犯裁判で有罪判決を受けた日本人将兵は4,403名(死刑984名)に上ります。

 

マニラ軍事裁判:Wikimedia commons資料

 

船員として多くの国を訪れましたが、間違いなく日本人は穏やかで優しい国民です。

 

その日本軍兵士がなぜ太平洋戦争で残虐行為をしたのか?

私には長い間、解けない問題でした。

 

最近、関東学院大学の林博史教授の講演記録を読んで、ようやく次のような当時の日本と日本軍の状況から問題の輪郭が見えてきました。

 

立命館平和研究第17号

 

1、時代背景

明治以来、先進国である欧米帝国主義国に追いつくため、脱亜入欧、富国強兵を進めていく過程で、アジアに対する差別意識と欧米に対するコンプレックスを抱くに至り、また自由や民主主義を育てるよりも国家主導の経済発展、軍事力増強の道を選んだ。

 

1930年代の中頃から天皇を神聖視して、神国日本、皇軍、天皇の兵士と言われるようになり、さらに30年代後半から40年代前半の日本は自由主義や民主主義を、あるいは人権や平等を西欧的な価値観だと否定するようになった。

 

さらに国際法についても否定する国家となり、太平洋戦争開戦時の天皇の宣戦布告証書からは、それまでは記載されていた「国際法を遵守しなさい」という趣旨の言葉が消えている。

 

平塚博物館資料

 

2、困難な侵略戦争

欧米の帝国主義国と異なり、日本が軍事進出していった先が、経済的、文化的、社会的にも日本と大差がないアジアの近隣諸国であったことが、大きな軋轢を引き起こした。

 

各国に対する周到な占領政策もなく進出し、さらには物資は現地調達するという日本軍の杜撰な作戦計画が相手国に経済的混乱をもたらして国民の反感を増幅し、困難なゲリラ戦を戦わざるを得ない状況となった。

 

抗日ポスターを眺める日本軍兵士(フィリピン):Wikimedia commons資料

 

3、兵士の訓練と軍隊生活

人権無視、暴力が日常的に行われ、兵士の人格を尊重し本人の自覚を向上させるような訓練や軍隊生活の指導は行われなかった。

 

兵士の人権を無視することが、当然、日本の民間人の人権、生命を無視すること、さらには相手国の兵士や民間人の人権、生命を無視することにつながっていった。

 

太陽堂資料

 

4、軍隊の規律

1934年に軍隊内務書が変えられて上申が困難となり、1943年には上申そのものが否定されて、上官の命令には絶対服従であるという考え方が生まれた。

 

日本軍が捕虜を認めないという考え方は1930年代からあり、1939年に作戦要務令で「死体も負傷した者も敵の手に渡さないようにせよ」と定められたため、捕虜になるくらいなら死ねと解釈されるようになった。

 

捕虜になることは恥であるという考えが定着すると、相手国の捕虜に対しても恥さらしだと見るようになり、捕虜虐待は当然の報いとされた。

 

戦陣訓:国立公文書館資料

 

国際法を無視し、人道を無視した日本軍の侵略戦争で、相手国には不必要、かつ甚大な人的、物的損害を与えました。

 

32万人の民間人の命を奪ったアメリカ軍の無差別空襲と原爆投下は、狂気の侵略戦争に対する狂気の連鎖反応です。

 

市民10万人が死亡したマニラ市街戦:Wikipedia資料

 

原爆投下:長崎市資料

 

しかし、損害はそれだけにとどまりません。

 

制海権も制空権も失って補給の途絶えた前線で戦った日本軍兵士は、捕虜になることが許されなかったため、病死・餓死した者が戦死した230万人の半数以上と推定され、さらに病死・餓死よりも自決や万歳突撃を選んだ者を加えると、百数十万人に達すると言われています。

 

捕虜になることを恥と思わされたのは兵士だけではありません。

満州、あるいは沖縄などで少なくとも2千人以上の民間人が集団自決をしました。

 

togetter.com資料

 

togetter.com資料

 

日本軍に置き去りにされた在満邦人155万人のうち、17万6千人が南満への逃避行中、または収容所で死亡し、約1万人の女性と子供が中国残留日本人となりました。

 

そして、日本軍は守るべき国民の命を盾に、本土決戦さえしようとしたのです。

 

満蒙開拓団:NHK資料

 

竹槍訓練:奈良県資料

 

戦時中の不都合な出来事は全て戦争のせいにして誰も責任を取らず、私たちも真実を見極める作業を怠ってきました。

その結果としてあるのが現在の日本です。

 

(1)日本軍の杜撰さゆえ飢えと絶望の果てに死んでいった百数十万人の兵士を靖国神社に合祀して英霊と称し、真実を覆っている国家。

 

(2)沖縄戦の犠牲だけでなく、アメリカ軍基地の74%を集中して沖縄県民に犠牲を強いている国家。

 

(3)戦争の犠牲となった日本の民間人や日本軍兵士として戦った旧植民地の人たちへの補償を無視している国家。

 

(4)戦後77年を経ても、侵略した国々との和解を実現せず、自衛の名の下にアメリカと軍事同盟を結び、いつのまにか世界第5位の軍事大国となった国家。

 

(5)研修生、技能実習生、特定技能者などの名目で、アジアの国々から低賃金の単純労働者を確保している国家。

 

(6)16%の貧困に苦しむ国民を放置して、軍事費の増額を画策する国家。

 

観艦式:自衛隊資料

 

私たちは平和国家の名の下に、戦前と似たような道を歩んでいるのではないか?

戦後の日本を担う国民として、誰もが責任を放棄せず、真実を見極めることが求められています。

 

飢えと絶望の果てに死んでいった百数十万人の兵士は被害者であるだけでなく、侵略戦争に加わり、少なからぬ割合で戦争犯罪を犯した加害者でもあるのです。

私たちが加害者にならない保証はどこにもありません。

 

 

引用文献:「加害と被害の重層構造ー日本人の戦争体験をとらえ直す」

     関東学園大学教授 林 博史