フィリピンには、かつて米国の国外最大の空軍基地と海軍基地がありました。
両基地は1世紀にわたって、アジアにおける米国のプレゼンスのシンボルであり、朝鮮戦争(1950−1953年)やベトナム戦争(1955−1975年)の前線基地として、また冷戦期には東西のパワー・バランスの拠点として機能しました。
ベトナム戦争:Photo by Lt. Col. Cecil J. Pass, USAF
マニラ北方77kmに位置するクラーク空軍基地(Clark Air Base)は、米西戦争で米国が勝利して、フィリピンの宗主国となった1898年に第五騎兵隊の基地として設立され、第一次大戦が終わった1918年にClark Fieldと命名されました。
第二次大戦後の1946年にフィリピンが独立した後も、基地条約に基づいて米国空軍は駐留を継続し、国外最大の空軍基地へと強化されたのです。
しかし、1991年6月のピナツボ火山噴火によって壊滅的な被害を受けて閉鎖に追い込まれ、1991年11月にフィリピンに返還されました。
Photo by SSgt. Val Gempis, USAF
一方、マニラ北西100kmのスービック海軍基地(U.S. Naval Base Subic)は、1885年にスペイン海軍の基地として開かれ、米国の植民地となってからは米国海軍が引き続き駐留しました。
南シナ海に面する天然の良港は、その地理的な条件にも恵まれて、艦船修繕、補給、休養施設を完備する基地として強化・拡張され、その面積はシンガポールの国土に匹敵する262平方マイルに及びました。
Photo by PH1 David R. Sanner, US Navy
1970年代初めから、米比両国間で米軍の駐留条件を巡って議論が重ねられていました。
東西冷戦の終了とクラーク空軍基地の返還がその議論に拍車をかけることになります。
375年間にわたって植民地となった歴史、独立後45年を経ても米軍への依存を脱却できない現状、さらに、エスカレートする米軍兵士の素行問題などが加わって、フィリピン国民に被植民地思考からの完全な脱却を決意させます。
1991年9月16日、上院は12対11で基地条約の延長を否決したのです。
1992年11月24日、スービック海軍基地はフィリピンに返還され、米国軍のフィリピン駐留はその歴史を閉じました。
Photo from Prof. Roland Simbulan
クラーク空軍基地は返還後、Clark Freeport and Special Economic Zoneに指定され、大規模国際空港を中心に開発が進められています。
フィリピン国有鉄道は2019年にManilaーClark International Airport間(88.8km)の鉄道建設に着工しました。
2025年に完成すると、両都市は時速160kmの高速列車で結ばれることになり、首都圏の第二空港としての役割も果たすことになります。
Photo by Ramon FVelasquez
Photo from BCDA
Photo from JICA
また、スービック海軍基地は返還後、Subic Special Economic and Freeport Zoneに指定されました。
大規模国際港湾を中心に開発が進められ、海運、造船、商業、観光、製造業などが立地しています。
Photos by Karl-Wilhelm Welteke
米軍のスービック海軍基地本部があったビルの前には記念碑が建立され、銘板には次のように刻まれています。
「1991年9月16日に立ち上がり、米比軍事基地条約に”NO"と宣言して、ついに4世紀以上にわたる外国軍の駐留を終わらせたフィリピン共和国の偉大な12人の上院議員に敬意を表そう。」
Photo by Richard E. Miller
しかし、理想を実現した喜びに浸っている時間はありませんでした。
米国軍の完全撤退は中国の南シナ海進出に絶好の機会を与えることになったのです。
1990年代半ばになると、中比両国の間で南沙諸島(Spratly Islands)や中沙諸島(Zhongsha Islands)のフィリピン排他的経済水域内にある島嶼および岩礁を巡る争いが激化し、1994年には南沙諸島東部のパラワン島に近いMischief Reefを中国軍が占拠して建造物を構築しました。
Illustration by Voice of America
Mischief Reef:Photo from NASA
フィリピンは中国の強大な軍事圧力に直面することになり、米国の支援を求めざるを得ない状況に追い込まれます。
1998年、米比両国はVisiting Force Agreementを締結して、米国軍事顧問団の派遣と共同軍事演習が行われることになりました。
米比共同軍事演習:Photo from US Embassy in PH
南シナ海における中国の領土拡大作戦はさらに強力に展開され、2012年には中沙諸島のScarborough Shoalを実効支配して軍事施設を建設しました。
また、南沙諸島では2013年12月に埋め立てを開始して、2015年6月までに12平方キロを完成させ、港湾設備、滑走路などのインフラ整備を進めています。
前アキノ大統領は2014年、米国とEnhanced Defence Cooperation Agreementを追加締結し、米軍のフィリピン軍基地への駐留と艦船のスービックへの寄港を開始してこれに対抗しています。
Scarborough Shoal: Photo from NASA
Fiery Cross Reef: Photo from US Navy
Subi Reef: US Navy
さらに、同大統領は2013年1月に南シナ海を巡る中国の主張や活動について、ハーグの常設仲裁裁判所に国際海洋法条約に基づいて仲裁の申し立てを行いました。
2016年7月の仲裁裁定は中国の「九段線」に囲まれた海域に対する歴史的領有権の主張を無効とし、フィリピン側の主張を全面的に認める内容となりましたが、中国政府は無視を決め込んだままです。
Photo fron United Nations
ドゥテルテ大統領は2016年6月に就任すると、直ちに訪中、訪露しました。
国内の経済開発に両国からも支援を得ると同時に、中国との領有権問題を解決するため、全方位の実利外交に方針を転換したのです。
大統領は習主席との首脳会談で、ハーグ裁判所の仲裁裁定を棚上げし、南沙諸島で共同資源開発をすることなどを提案しました。
Photo from PCOO
新たな外交方針のもと、多くのインフラ整備案件に中国から多額の借款を得ることができ、Scarborough Shoalでフィリピンの漁船が中国公船に妨害されていた問題は解消されました。
しかし、中国は南沙諸島における軍事施設の建設を進め、Fiery Cross Reef、Subi Reef、Mischief Reefなどは海上要塞と化しています。
Fiery Cross Reef:Photo from SkySat
Subi Reef: Photo from Sentinel-2
Mischief Reef: Photo by Tony Peters
米国との基地条約を破棄して、中国の南シナ海進出を容易にした可能性はあります。
一方で、フィリピンが外国の軍事攻撃を受ける理由はなくなりました。
米国との地位協定も全方位外交も中国との領有権問題に解決をもたらすことはできませんでした。
しかし、完全な独立国として対応できたことが、フィリピン国民の最も誇りとするところでしょう。