先住民から購入した土地を開墾して、Abaca(マニラ麻)の植え付けを始めたところで、太田恭三郎は第二代ダバオ郡長官Walkerに呼び出しを受けます。

 

先住民の土地は公有地として分類されており、外国人は公有地の払い下げを受ける資格がないため、早急に明け渡すよう告げられたのです。

 

彼は6か月の猶予を貰い、開墾を主導した大城孝蔵とともに解決策を模索しますが、第二代モロ州知事BlissもWalkerを支持したため、彼らは万策尽きてしまいます。

 

当時、既に16の日本人所有地で開墾が始められていました。

 

Photo from Pilippine Island World

 

モロ州庁舎 Photo fro Museo Dabawenyo

 

恭三郎は法律専門家のアドバイスを得るため、マニラの日本大使館へ向かいました。

 

大使館で紹介されたアメリカ人顧問弁護士のアドバイスに、彼は光明を見出します。

 

The Public Land Act of 1903によれば、フィリピンの法律に従って設立された会社は公有地を1,024ヘクタールまで払い下げ、もしくは25年間租借(25年間延長可能)することができるというのです。

 

早速、恭三郎はアメリカ総督府を訪れ、日本人移民350名のダバオでの就労を支援してくれたFrank C. Carpenterに確認を依頼します。

 

マニラ Photo from gutenberg

 

1900年代に入ると、世界の主要国が軍備拡張競争を始めたため、艦船索具は重要な軍事品となり、安価で高品質なマニラ麻の需要が増します。

 

フィリピンのマニラ麻産業の先駆者であるイギリスから主導権を奪うには、アメリカ人によって始められたダバオのマニラ麻産業を発展させることが必須でした。

 

さらに、モロ民族との戦闘が続いて開発が遅々として進まないミンダナオに、いかに最大の資本と労働力を投入するかはアメリカ総督府の重要課題でもありました。

 

これらの状況から、フィリピン総督James F. Smith(1906-1909)は日本人排斥を企図する現地の決定を覆し、日本人による農業会社の設立を認めたのです。

 

また、Carpenterの恭三郎に対する支援は、1914年にモロ州がDepartment of Mindanao and Suluとなって、彼が最初の文官知事に就任してからも変わることはありませんでした。

 

アメリカ総督府 Photo from gutenberg

 

将来展望が開けた恭三郎は、農業会社の設立による土地の購入と開墾を推進する一方、日本人の農場が集中しているGuianga(Tugbok)地区の一角にあるBagobo族首長Intalの名が冠せられた土地(7.4平方キロ)を購入します。

 

その土地は、多くの日本人が留まるようにとの願いを込めて「民多留」(Mintal)と名付けられました。

 

1907年5月、恭三郎はマニラ麻事業を統括するため、自分が主株主となり、孝蔵、日本人移民にも出資を求めて、太田興業株式会社をMintalに設立し、農業の専門家である孝蔵を副社長に迎えました。

 

民多留(Mintal) Google map

 

1910年には太田興業がダバオで最多のマニラ麻を生産するようになり、1912年には輸出業務を直接担うため、マニラ支店を開設しました。

 

しかし、恭三郎と孝蔵はマニラ麻事業展開の速度を緩めることはありませんでした。

 

日本人の農場が集中しているCalinan、Guianga(Tugbok)、Talomo地区に総延長120kmに及ぶ灌漑水路網を築き、常に最先端の耕作・栽培手法と肥料を導入して、改良を奨励しました。

 

また、市場価格の変動が大きいマニラ麻だけに頼るのではなく、綿花、ゴム、コーヒー、果物、野菜などの耕作を薦めたのです。

 

Google map

 

1914年には、現在の伊藤忠、丸紅の前身、伊藤商店の後援を受けた古川拓殖株式会社が設立され、第一次世界大戦(1914-1918)景気による日本国内の余剰資本がダバオに流れ込んで状況は一変します。

 

1918年末までに、日本人所有農場は74、その平均耕作面積は797ヘクタールとなり、ダバオのマニラ麻耕作面積の60%を占めるに至ります。

 

孝蔵の出身地である沖縄や西日本から多くの日本人が移住し、同年にはダバオの日本人人口は4,920人となりました。

 

 

Photo from Kaizen Davao

 

アメリカ総督府はアメリカ人が主体となってダバオのマニラ麻産業が発展することを期待していました。

 

しかし、1902年に自国の砂糖トラストを保護するために制定されたThe Public Land Act of 1902により、公有地の払い下げは1,024ヘクタールに制限されたため、機械化農法には適さないと判断され、本国からは期待した投資を受けることができませんでした。

 

Photo from University of Michigan

 

Mintalに居住する日本人移民の増加に合わせ、恭三郎は町の整備を進めます。

 

道路網、電話網、商店、寺院、神社、教会、邦字新聞社、日本人学校、病院、水力発電所などを建設し、1920年には在マニラ日本総領事館分館が開かれました。

 

ダバオの日本人人口は1940年には19,267人に達し、Mintalは東南アジア最大の日本人町となったのです。

 

Map from ODC

 

Copyright (c) en.wikipedia.org

 

Photo from PNLSC

 

Photo from PNLSC