日本の組織的な移民(海外移住、海外出稼ぎ労働)は明治維新の直後に始まりました。

 

政府は人口過剰対策として、太平洋戦争開戦までに約208万人(海外領土への約130万人を含む)の移民を送り出しました。

 

東南アジアへは7万6千人が渡りましたが、その70%は米国植民地として開発が進んでいたフィリピンへの移民でした。

 

 

外務省資料

 

JICA資料

 

米国のフィリピン総督府はマニラの酷暑対策として、ルソン島北部の高原地帯バギオを夏季の首都とすることを決定し、1900年にDagupanからBaguioに至る道路建設(71km)を開始しました。

 

しかし、Rosario-Baguio間の山岳道路区間(Kennon Road-41km)では山崩れや疫病の流行が相次いで工事は難航したため、1902年に工事主任となったKennon少佐は米国における日本人移民に着目し、総督府から日本人移民を雇用する許可を得ます。

 

移民会社が日本で1,024人を募集したところ、明治の地租改正で困窮状態にあった農村から大挙して応募があり、1903年に1,369人、1904年には1,493人、1905年には246人が3年契約の単純労働者としてフィリピンへ渡りました。

 

道路建設の契約人数に達した後は、Dagupan-San Fernando間の鉄道工事、Mckinley兵舎工事、Bataan炭鉱などに雇用されました。

 

Kennon Road-Photo from Internet Archive 

 

道路の建設現場に着いた日本人移民は説明された条件との違いに失望し、かつ過酷な労働環境であったため、定着率は低く、延べ就労人数は2千人を超えました。

 

事故と赤痢、脚気、マラリアなどにより、日本人の死者は200人に上ったと言われています。

 

Photo by Dean Conar Dorcester

 

日本人移民の窮状を知ったマニラの貿易商、太田恭三郎はアメリカ総督府と交渉し、日本人労働者に日本食を供給する承認を得て自ら食料品調達に当たり、状況は改善されました。

 

さらに、彼は工事が終わると皆が失職することを知り、当時マニラ麻栽培の揺籃期で労働力不足に悩んでいたミンダナオ島のダバオへ、道路完成前後に3度にわたって350人の日本人移民を送り込みました。

 

1905年7月には彼自らもダバオに転じ、同地における日本人によるマニラ麻産業の礎を築くことになります。

 

1905年3月に道路建設工事が終わると、大半の日本人移民は帰国しますが、一部は残留して米国人に雇われ、大工、石積み工、庭師、製材工などとしてバギオの開発工事に従事しました。

 

マニラ麻 Copyright (c) en.wikipedia.org

 

1908年のバギオ Photo from American Historical Collection

 

神奈川県足柄上郡出身の加藤関造は、16歳のとき兄松造とともにKennon Road建設工事の移民としてフィリピンへ渡りました。

 

彼は道路建設工事終了後も兄と共にフィリピンに残る選択をし、バギオの州庁舎、同関連施設、病院、教会などの建設工事に従事します。

 

これらの工事現場では先祖伝来の土地を公有地として没収され、生活の基盤を失った多くの先住民イゴロットが働いていました。

関造は同じ現場で働いていたイゴロットの娘と出会い、若い二人は惹かれ合うようになったのです。

 

政府合同庁舎ーPhoto by Dean Conar Dorcester

 

1910年に二人は所帯を持ち、バギオ郊外のLa Trinidadで大根、ゴボウ、サツマイモなどの栽培を始めました。

 

関造が農作業をし、収穫した作物を妻が市場で売るという生活でしたが、1910年代末になるとマニラへの野菜供給ルートができ、貧しいながらも生活は次第に安定します。

 

三男六女に恵まれ、末の娘たちには1925年に開校されたバギオ日本人学校で学ばせることができました。

 

2003年当時81歳の三女キク、74歳の五女オタチは「生活は楽ではなかったが、幸せな子供時代であった。」と述懐しています。

 

La Trinidad-Photo by Igorotage

 

バギオ日本人学校 Photo from JANL

 

しかし、太平洋戦争が始まって、生活は一変しました。

 

1942年に日本軍がバギオを占領すると、現地語と日本語ができる3人の息子は憲兵隊の通訳や現地の案内に駆り出され、さらに戦局が悪化してくると、彼らも徴兵され、軍属として戦闘への参加を余儀なくされたのです。

 

1943年から45年にかけて3人の息子は抗日ゲリラとの戦闘で命を落としました。

 

日本軍マニラ進攻 Photo by Carl Mydanse

 

1945年に激戦地となったバギオが米軍の手に落ちると、関造は自分が生きていては妻子に危険が及ぶと判断し、兄松造とともに手榴弾を抱いて自爆します。

 

戦争により甚大な被害を受けたフィリピンでは、激しい反日感情が渦巻いていました。

日系人への報復を避けるため、娘6人は母方の性を名乗り、名前を変えて、隠れるように暮らす長く辛い生活が始まりました。

 

米軍のバギオ進攻 Photo from National WWll Museum

 

Photo from National WWll Museum

 

当時の国籍法では日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれた子供は日本国籍を有することになりますが、関造の死によって日本との関係は完全に断ち切られ、日本政府もフィリピンの残留日系人二世については長い間、調査することすらありませんでした。

 

フィリピンも父系優先主義をとっていたため、彼女たちにフィリピン国籍はありません。

 

船尾修写真集

 

しかし、日比両政府の努力により反日感情も次第に薄れていき、バギオでは1972年に日系人による最初の会合が開かれ、翌1973年に北ルソン比日友好協会が組織されました。

 

1986年にはバギオに日比友好親善会館Abongが開設され、日本語教育や交換留学、技術研修生の派遣、戦争中に離れ離れとなった父親捜し、日本の親族との交流などが行われています。

 

Photo from JANL

 

Photo from JANL

 

当時、約千人の日本人移民がフィリピン人女性と結婚していたと推定されており、1985年に日本政府が調査を開始してから2018年までに、3,810人の残留日系人二世が確認されました。

 

しかし、夫は徴兵されて戦闘に加わり、戦死または捕虜となって日本に強制送還され、妻は日系人の家族であることを隠すために婚姻証明書などは廃棄したため、国籍を回復できた二世は僅か1,210人でした。

 

多くの残留日系人二世が無国籍のまま亡くなったのです。

 

 

Photo from Japan Foundation

 

子供たちは家庭では日本語を話し、ひな祭りと端午の節句を祝いながら、日系人コミュニティーの一員として日本と変わらぬ生活を送っていました。

 

名前を変え、日系人であることを隠し続けた二十数年間も、日本人としてのアイデンティティーを捨て去ることはできなかったといいます。