ミンダナオ島の先住民は紀元前3,000-1,500年に台湾から優れた航海技術により西はマダガスカル、東は太平洋諸島まで移民したAustronesian民族です。

 

先住民の内、14-15世紀に回教徒となった人たちはMoro、回教徒にもキリスト教徒にもならず民族の伝統を守るため山岳地帯に住むようになった人たちはLumadと総称されています。

 

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国土入植局(NLSA)の計画に基づき、1939年にSantos将軍と62人のビサヤス、ルソンの農民がDadiangas地区(今のジェネラル・サントス)に入植してミンダナオ島の本格的な農業開発は始まりました。

 

それ以来、フィリピン政府が土地所有に関してLumadの人たちを差別したことは無く、自分の土地で農業や牧畜を営む人たちもいますが、多くの人たちは農場や牧場で賃仕事をしているのが現状で、一般的には貧しい暮らしをしています。

 

 

 

 

Laiの母親がCaptainを務めるMaasimのBarangay Kamangaは背後の広大な山岳地帯もその行政区域に含み、そこにはB'laanと呼ばれるLumadの一族が住んでいます。

 

 

Laiの両親はかつて同地区に牧場を所有していたことがあり、現在は母親が彼らの生活向上に取り組む立場にあるだけでなく、最近、義弟Rogelioが同地区に農地を借りてトウモロコシとピーマンの栽培を始めたので、彼らとの関係は益々深まっています。

 

 

 

 

そこで、Rogelioの次女RoshenieとKamangaの住民である弟Bongの長男Arshidの誕生日をB'laanの集落Sitio Libasで地区の子供たちを招いて祝うことになったのです。

 

場所はLibas Daycare Centerです。

 

 

小学校とDaycare Centerを中心に民家が散在していますが、Bahay kuboの名残を残す家も見かけられます。

 

集落は標高500m程度の山頂付近にあるにも拘わらず、周囲は広大な農地と牧場です。

 

 

 

 

数十名の子供たちと世話役の大人たちが集まって、誕生日のお祝いは始まりました。

 

RoshenieとArshidが紹介され、子供たちはお祝いの歌を歌いました。

 

 

 

 

その後、食事、飲み物、アイスくリーム、ケーキをお腹一杯食べて、スナックのお土産を貰い、子供たちは帰って行きました。

 

 

 

 

 

次に、Rogelioのトウモロコシとピーマン農場の監督の家を借りて、改めて親族で二人の誕生日を祝いました。

 

写真のトラクターはRogelioが代表を務める協同組合の持ち物です。

 

 

家はBahay kubo風で、台所、食堂、居間兼用のスペースと寝室に分かれています。

 

煮炊きするのは家の脇です。

 

 

 

 

現地で調理したのは地鶏のスープ、魚とイカの炭火焼、ご飯です。

 

 

 

それに料理が得意なMoneraが前夜から用意した料理を加えて食事が始まりました。

 

周囲を見回すと半数以上は手で食べています。

手で食べたくなるほど美味しいのです。

 

 

 

皆の意が籠ったとてもフィリピンらしい誕生日のお祝いになりました。