高校の同級生の妻とは26歳で結婚し、翌年には長男、更に1年半後には次男が誕生しました。

 

 

その頃の船員の労働条件は過酷で、当直業務に就く航海士などは1年365日が労働日で、1年間乗船しても有給休暇は25労働日あるだけでした。

 

休暇で家に帰っても、妻が席を外すと子供は泣き出してしまい、途方に暮れた記憶があります。

 

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32歳のときに初めて陸上勤務となり、娘が誕生しました。

 

それ以降は3-4年陸上勤務、1-2年海上勤務のパターンが繰り返されることになったのですが、家族と共に過ごす陸上勤務中も、週に3日は午前様という有様で、遂に妻からは「夫としても父親としても失格」のレッテルを貼られてしまいました。

 

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47歳のとき、会社が本格的にフィリピン人船員の雇用を始めることになり、担当の駐在員としてマニラに派遣されることになりました。

 

「一緒に行こう」と家族全員に声をかけたのですが、大学生になっていた息子二人からはつれない返事で、妻は日本に残らざるを得なくなりました。

 

単身赴任を覚悟していたところ、当時、学級崩壊全盛期で突っ張っていた中学2年生の娘が一緒に行きたいと言ったのです。

 

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赴任して直ぐに娘の受け入れ準備を始めました。

 

まず、入学できるインターナショナルスクールを探し、メイド、運転手、英語の家庭教師の人選を現地のパートナー会社に頼みました。

 

Photo from Brent International

 

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Estrellaはパートナー会社社員の遠縁の娘で、Bicolに住む23歳の2児の母親です。

小学校を終えた後、何度かマニラのフィリピン人家庭でメイドの経験はあると言います。

 

フィリピン料理しかできないと言うので、採用後、料理学校で西洋料理コースを受講してもらいました。

 

 

Benは元パートナー会社役員の運転手で、サウジに出稼ぎに行く予定で退職したのですが、出発を少し延ばしてもいいと言うのです。

 

40代前半で体格もよく、ボディーガード兼任です。

 

 

入学予定のインターナショナルスクールに英語の家庭教師について相談したところ、英語を母国語としない生徒のためにESLというクラスがあり、早ければ6か月、遅くとも1年でみんな通常のクラスへ移っていくので必要ないと言います。

 

それでも、何かの助けになればと、英国人のMs. Jonesに個人レッスンをお願いしました。

 

 

そして、忙しそうにしている私を見かねた秘書兼経理担当のLoidaが、娘のビザの申請や細々とした日常の連絡などを引き受けてくれたのです。

 

 

こうしてTeam Manilaは結成され、チームの全員が娘を妹のように、或いは娘のように3年間守ってくれたのです。

 

Estrellaは帰宅が遅くなることが多い私に代わって、生活全般の世話をし、話し相手になっていました。

 

台風襲来時にはマニラの多くの道路は冠水し、大交通渋滞を起こします。

Loidaから連絡を受けたEstrellaはマニラの道路事情を熟知するBenと共に学校へ急行し、いつも安全に娘を下校させていました。

 

私に内緒で夜ディスコに行く娘と友人たちを護衛してくれたのはBenです。

 

Ms. Jonesは根気強く娘を英語の世界へ導いてくれました。

 

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娘は当初、化粧、ヘアスタイル、洋服、ピアスなど日本の中学ではできなかったことを全て試していました。

 

英語の習熟度が上がるにつれて、体育、音楽などと徐々に通常のクラスへ移っていくのですが、娘はESLを卒業するのに1年掛りました。

 

通常のクラスへ移ってから間もなく、勉強などしたこともなかった娘が「宿題やレポートを手伝ってもらえる理系女子大生の家庭教師を見つけて欲しい」と言ったのです。

 

最初の学期の通知表を見て、驚きました。

全ての科目が基準をクリアしていたのです。

 

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娘は帰国後、大学の英文科で学び、さらに幼児教育の勉強がしたいと米国に渡りました。

今は米国籍となり、家庭環境に問題がある幼児の教育をライフ・ワークとして取り組んでいます。

 

 

「お父さん、娘に希望を与えてくれてありがとう。今までのことは全部許してあげる!」

妻は初めて私を夫、父親として認めてくれました。

 

60歳で二人そろって退職したとき、何がしたいか彼女に尋ねると、「途上国で普通の主婦をしたい」というのが答えでした。

 

パナマで2年、マニラで4年が経ったときに彼女は発病し、2年間の闘病の末、亡くなりました。

 

 

私はついついTeam Manilaの秘密を妻に明かさなかったことを今でも悔やんでいます。