上海は船員として何度か寄港したことがあります。

当時はコンテナターミナルも揚子江を遡航した外高橋にあったので、二千万都市の燃えるような熱気に直接触れることができました。

上海
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その後、出張で北京へ行く機会がありました。

南部の上海とは異なり、北部の落ち着いた首都の佇まいでしたが、何故だか懐かしい不思議な胸騒ぎを覚えたのです。

北京
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私は満州国警察官であった父の任地、安東省荘河県で生まれました。
 
その後、黒河省呼馬県金山鎮の国境警察隊に配属された父に従い、家族と共に同地へ移りました。
 
しかし、父が昭和18年秋に妹の出産を控えた母と子供二人を帰国させる決断をし、私たちは終戦後の悲惨な引揚げを免れることができたのです。
 
満州国の省
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引揚げ船
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一方、父は金山鎮の国境警察隊に引き続きとどまり、ソ連軍が侵攻した昭和20年8月9日に死亡しました。
 
父の死亡は長い間確認されず、母が戦死の公報を受け取ったのは終戦後8年経った昭和28年でした。
 
ソ連軍の侵攻経路
ソ連軍の侵攻経路 Copyright (c) ja.wikipedia.org
 
金山鎮の状況を知っていた母はソ連軍の侵攻を知った日に父の死亡を確信したようです。
父は「自分も家族も絶対に捕虜にはさせない」と折に触れ母に言っていたのです。
 
日本人捕虜
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Laiが父のことを訊くので、以上のような話をすると、二人で中国へ行こうと言います。
 
以前に兄が提案した時は、父の亡くなった場所を訪ねる勇気がないと母が言って実現しませんでした。
母も兄も亡くなった今では、私に残された責任のようにも思えます。
 
天安門
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先ずマニラ経由で北京へ行き、万里の長城に登って遥か東北の地、満州を望みます。
 
万里の長城
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次は黒竜江に面する国境の街「黒河」です。
ここで私たちは金山鎮への定期船に上下船したのです。
 
黒河の街だけでなく、遊覧船に乗って黒竜江や対岸のロシアの街ブラゴヴェシチェンスクを真近に見たいものです。
 
満州国地図
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黒河駅
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黒河市内
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黒竜江と黒河
 
黒竜江の遊覧船
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最後は父が亡くなった金山鎮です。
 
現在は黒竜江省大興安嶺地区呼馬県金山郷と呼ばれ、呼馬県の人口は35万人という程度の情報しか入手できません。
最悪の場合は黒河滞在中に調査することになりそうです。
 
黒竜江省地図
 
昭和9年(1934年)の新聞記事によると、黒河から黒竜江を258km遡航した河岸の街で、戸数120、人口470人、辛うじて通行できる道路の終点でした。
 
金山鎮は呼馬県の経済の中心で、金、毛皮、木材の集散地として戸数2,000を数えていたが、1929年の中ソ紛争により街が焼失し、居住していた日本人は中国人の妻妾となった女性7名のみであったと記載されています。
 
対岸のソ連兵が肉眼で見え、冬になると凍結した河を歩いて渡ることができたこと、日本人が殆どいないので3歳上の兄は周りの人たちと中国語で会話していたことなど、母がよく話していました。
 
黒竜江
 
父が所属した国境警察隊は治安維持用の小火器を装備するのみで、日本人数名の他は中国人主体の編成でした。
重装備したソ連軍機甲部隊の前に為す術もなかったに違いありません。
 
父がどのように死に、どのように葬られたかは不明のままです。
 
ソ連軍戦車隊
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1929年の世界恐慌が世界中に深刻な経済不況をもたらし、ファシズムが台頭する中で日本の軍部は次第に軍事力、政治力を強めました。
そして、中国及び南方への進出に活路を求めたのです。
 
満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)、太平洋戦争(1941年)と突き進んでいった時代に、父は満州国警察官として生き、辺境の地で32年の生涯を終えました。
 
太平洋戦争
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私は戦後の貧しさの中で育ち、ひたすら豊かさを求めて高度成長期を生きました。
 
そして人並みの豊かさは手に入れましたが、バブル崩壊と共に進むべき道を見失ったままです。
 
原爆ドーム
 
郊外の建売住宅
 
この旅の終着点、金山鎮で父を弔い、志半ばで逝った父のためにも私は再出発しなければと思っています。