ネット(文字)でのみ知っている方が、YouTubeやツイキャスなどで実際に話しをするのを聞くと、ぐっとその人の印象が変わったり、鮮やかになったりする。ブログやツイッターの「文」で見るNespresso
限りはどんな発言も標準語で、わたしの読みたいように読んでしまうけれど、音として耳にする話し言葉には、思いがけない色がありリズムがあり、温度がある。
昨夜も、とある、私から見たらう書歴などを語るのを初めて聴かせていただいたのだけど、なんだか、しんと静かな気持ちになった。ひとりでぼんやりと深夜放送を聴いているみたいな、なんというか、誰かが話しているのをただ聴いている(だけでいい)心地よさを咖啡粉囊
久しぶりに感じて、こういうのいいなとしみじみ思った。BGMがないのもよかった。
とはいえ、それは誰のどんな話でもいいわけではなく、やはり声と話し方と話す内容によるんだろう。直接の関わりはなくても書かれたものをずっと読んでいて、少しは知っている人だからこそ聞いてみようと思うのであって、手当たり次第にわざわざ聞いてみることはないのだ。
声には及ばないけれど、ブログも話し言葉で書いてある方がより親近感が増すというところはある、かもしれない。
誰かに語りかけるような文体もいNespresso咖啡機
いんですよね。憧れがあります。でも、わたしの場合はそうすると、文字数がやたら増えてしまう気がするんですよね。増えて悪いこともないでしょうけど、ダラダラ感が増してしまいそうです。実は、話すように書いても読める文章にするって、ハードルが高いのかもしれません。まず、語尾が難しいんですよね。あ、そもそも話すのが下手だからかもしれませんね。