皆さま ごきげんよう

 

2020年は 李垠殿下と李方子妃 ご成婚100周年を迎えた 

 

記念すべき年でありました。記念式典はコロナ禍で

 

延期を余儀なくされていましたが、無事に開催され、

 

私も 参加してまいりました。

 

お二人が過ごされた 歴史的なお屋敷で、現在 赤坂 プリンス 

 

クラシック ハウスと名を変えた 宴会場で 行われました。

 

 

 

開会の辞 一般財団法人 日本ルネサンス創成 池上博 理事長

来賓挨拶 一般財団法人 梨本宮記念財団 梨本隆夫 理事長 

乾杯   一般財団法人 日本ルネサンス創成財団 専務理事  加来純子氏

表彰式 一般財団法人 梨本宮記念財団 企画・広報担当 堀 守子氏 
 

 

 

 

式典では、 ショパン・コンクール 第三位受賞の 

 

横山幸雄氏の 美しいピアノの演奏が披露されました。

 

 

午餐会のメニューは、

 

帆立貝柱のタルタル 柑橘の香り

かぼちゃのポタージュ

真鯛のポワレ ソースヴァンブラン

国産牛ロースのグリル ソースムータルド

旬の柑橘とブランマンジェ 温州みかんのグラニテ

 

 

 

 

頂いた記念品は、焼き菓子とパーカーの ボールペンです。

 

パーカーのペンには お二人のご成婚100周年を祝う 

 

文字が刻まれいています。

 

 

以下、李垠殿下・李方子妃 ご成婚100周年記念式典

 

実行委員会のごあいさつより。

 

『1920年4月28日、 英親王李垠皇太子と

 

梨本宮方子女王の婚儀が 行われました。 

 

時代は日本による植民地統治期であり、

 

お二人の結婚は「日韓融和」を謳う 

 

当時の日本政府による政略結婚でありました。

 

 

 

お二人の婚儀の 4日前に、李垠殿下の御父上である

 

高宗皇帝が急死され、更にお二人の長男の晋王子を 

 

生後8ヶ月の若さで喪うという 筆舌に尽くせぬ

 

痛みを経験されました。

 

 

 

時代と政治に翻弄された両殿下の人生でありましたが、

 

「恩讐を超え」 その苦悩や重責を背負いながら 

 

両国の人々のため、両国の友好のために 

 

その人生を捧げられました。

 

 

身分や財産をはく奪され、国籍さえも失った状況で、

 

社会の最も弱い立場にある障害児に教育と自立に

 

ご尽力されました。その崇高な精神は 私達が 

 

未来永劫引き継いでいくべきものであると 思います。

 

 

近年、日本と朝鮮半島を取り巻く状況は 混迷を極めております。

 

ゆえに、両殿下のご成婚100周年を迎えて、今一度、両国の

 

友好と共栄を 心から願う皆様と共に両殿下の想いを

 

引き継いでまいりたい所存でございます。』

 

 

 

1963年 韓国政府によって 国籍が復活され、

 

ようやく帰国が実現した時、李垠殿下は 

 

病魔に蝕まれており、寝たきりとなっていました。

 

方子妃は 韓国で夫の看病を続けながら、

 

福祉事業に貢献したいという殿下の意思を引き継ぎ、

 

知的障害児、肢体不自由児などの障害児教育に邁進し、

 

韓国初の障害福祉施設となる 社会福祉法人『明暉園』を

 

創設されました。李垠殿下の雅号である「明暉」をとって命名されました。

 

 

 

1970年に 李垠殿下が逝去された翌年、方子妃は 知的障害者の

 

ための教育を目的とした 『慈恵学校』を設立されました。

 

国から生活費の援助を受けながらの苦しい生活にも関わらず、

 

社会奉仕に情熱を注がれました。このような活動から、

 

方子妃は「韓国の障害の母」と称えられ、1981年に 

 

韓国国民勲章である「牡丹勲章」を授与されました。

 

 

 

日本の皇族出身者である 方子妃が奉仕活動を率先してきたことで、

 

両国関係においても 多大なる貢献を されました。

 

1989年に 生涯を終えた方子さんの葬儀は

 

準国葬の扱いとなり、後に 韓国国民勲章槿賞(勲一等)が 追贈されました。

 

両国の歴史的、政治的な 相克の渦の中 人生を翻弄されたにも

 

関わらず、 福祉活動に尽力したお二人の功績と 深い愛は、

 

現代を生きる私達に 尊い教えを示してくれていると思います。