山口淑子さんと 時同じくして 山口洋子さんの死を

TVニュースで見ました。

私は 日本へ帰ってきてから お二人を訪ねなければと

思っていながら叶わず 今日に至ってしまいました。



私が 山口さんの「李香蘭」時代の美しいポートレートを

見たのは 私の母方の千葉県の家でした。

あまりに美しいポートレートに子供ながらに

見入っておりました。

 

この人日本人? 中国人?と いとこに聞くと

日本人だけど 中国で 「李香蘭」という名で

活躍している 女優さんと聞きました。

子供心に 日本人とはかけ離れた 大きな瞳、

鼻筋の通った 形良い鼻、 花びらのような唇・・・

当時の ブロマイドは 白黒でしたが 圧倒される美しさは

子供心に 焼き付いていました。

 

報道されているように 「李香蘭」は 1951年

日系2世の彫刻家 イサム・ノグチさんと結婚、

56年に離婚、 その後58年に 外交官の

大鷹弘さんと結婚しました。

1966年1月 ジュネーブで 外交官の妻 大鷹淑子さんとなった

彼女とお会いしたのです。 子供の頃の憧れの方が

目の前に。   私は大変 感激致しました。

淑子さんの方も すでに 有名になっていた私と会って

興奮してらしたようでした。

私達は すぐ親しくなり、 ジュネーブから 1時間ほどの

ド・ロスチャイルド男爵の スキー場で 一緒に遊んだり

ジュネーブで マージャンをしたり 数日間ご一緒に

過ごさせて下さったことは 一生の思い出となりました。

その時、  大鷹弘さんの 双子の弟 大鷹正さんは ジャカルタの

日本大使館の公使を してらっしゃいました。

大鷹正さんの奥様も 八千草薫さんそっくりの

美しい方でした。

私は 当時 サリ・アシ財団をインドネシアで設立し、

サリ・アシ病院を ジャカルタの中央に建設する予定で

日本政府にお願いをし、川島正次郎氏や 日本医師会会長の

武見太郎氏のお力添いで 医学・医療関係では 指導や

アドバイスをいただいたり 病院建設においては  鹿島建設に設計を

お願いし、 日本の円クレジットがつくことになり、 借款は

当時の首相 佐藤栄作氏に委ねていたところでした。  

その為、 医療器具を作っている工場や 病院の視察で

ヨーロッパの各国を訪問していたのです。

彼女は その後、74年7月の参院選で初当選、 政治家としての

道を歩まれていました。

私は パリの亡命、NY時代、 そして 日本に帰ってきてから

お会いしたい、お会いしなければと 思ってはいたのですが

なかなか実現出来ず 残念でなりません。



一方、 五木ひろしさんを一躍有名にした 「よこはま・たそがれ」や

中条きよしさんの「うそ」、 石原裕次郎さんの「ブランデー・グラス」などの

数々のヒット曲の作詞家で 有名であり、

小説家として 直木賞作家として有名でもある

山口洋子さんとは 私が銀座に よく遊びに行っていた時、

「姫」で よく会いました。

 

その頃の彼女のお店、 「姫」は 大変 繁盛していて 銀座の

ホステスも 「姫」で働くことが プレステージと思っていましたし、

お客様も 有名人の方が 沢山 来ていました。

そこに カルーセル麻紀さんも 働いていました。

「姫」全盛の 時代でした。

「姫」の隣には君島一郎さんのお店があり、

ウィンドウには いつも美しいドレスが飾られており

君島さんの ドレスが着れるような 女性になりたいと

ホステスさん達は そこを通る度、 夢を見ていたものです。

洋子さんと私は 色々な話をして 時間を楽しみました。



私が 日本に帰ってきてから お会いしたいと思っていたのは

このお二人の他に 小野田寛郎少尉です。

皆さんお会いできぬまま お別れしてしまったのが

本当に心残りで 仕方ありません。

ご冥福を お祈り申し上げます。  
 
                              合掌