皆さま ごきげんよう

私の「回想記」の 編集協力を していただいた

慶応義塾大学 経済学部 名誉教授であり、 日本占領期の

インドネシア史を 研究対象としている 倉沢愛子名誉教授の本を

ご紹介いたしましょう。

9. 30  世界を 震撼させた日   インドネシア政変の真相と 波紋 」

( 岩波現代全書 028) です。

 


政変(クーデター)から  大虐殺(マスキリング)へ、

背後に 何があったのか、 事件は 世界をどう変えたのか?

事件の 真相を迫り、 社会暴力の 記憶・トラウマ・和解を

追っています。

カンボジアの ポルポト政権下の  〝大虐殺〟は 世界的に知られて

いますが、 インドネシアにおいても 200万人とも言われる 〝大虐殺〟が

あったことは あまり  知られていません。

1965年10月1日未明けに、 ジャカルタで 軍事政変が勃発、

半年後の 1枚の スカルノ大統領が 発したとされる命令書を
 
悪利用したスハルトが 権限を奪ってしまいました。

そして 中国では 文化大革命が起き、

東南アジアに アセアンが 成立し

西側反共主義陣営の 結束を固め、

日本は 大規模な経済進出の 足掛かりを 掴んだのです。

政変を 主謀したとされた インドネシア共産党は

非合法化され、 党員は 逮捕され、殺され、 政治犯にされました。

国内全土に 大虐殺の嵐が 吹き荒れ、 インドネシア経済を

担っていた華僑への 迫害が エスカレートしていくのです。

膨大な 一時史料と 先行研究を踏まえ、 いまだに 謎に包まれた

事件の 真相を 追及し、インタビューと 現地取材を通して

事件の波紋の 全体像の ありさまを 生き生きと 描き出しています。

私のブログでも 紹介致しました 〝赤狩り〟と称した この大虐殺を

正当化した ドキュメンタリー映画 〝アクト・オブ・キリング〟が 4月に

公開されましたが、 インドネシアでは 上映禁止でした。



1950年代、 60年代の世界は、 アメリカと ロシアという

二大パワーで 牛耳られて おりました。

スカルノは 13年間の投獄のあと 日本軍の支えもあって

日本が 第二次世界大戦の 無条件降伏した 二日後の 8月17日に

独立宣言を果たし、 初代大統領に就任したのです。

しかし、 その後 オランダが 再び侵入し、独立戦争が 5年間あり

その時 残留日本兵 数千人が スカルノ大統領と共に 戦い

真の独立を 勝ち取ることになったのです。

1955年 バンドン会議(アジア・アフリカ会議)では 植民地から

独立した国々、 アジア、 アフリカ、 アラビア諸国、 ラテン・アメリカ、

世界の中立国と 社会主義国をまとめ  「第三勢力」を 創りあげ、

世界の パワーのバランスを 取ろうとしました。 そして、 スカルノ大統領は

「アジアのライオン」と 呼ばれ、 リーダー格となっていきました。

それを 面白く思っていなかったのが ホワイト・ハウスでした。

加えて、  太平洋諸国で   アメリカに 軍事基地を 拒否したのは

インドネシアの スカルノだけでした。   アメリカのペンタゴンは 

〝打倒スカルノ!〟と 憎んでおりました。  

当時、 スカルノは 国内的に 「ブルディカリ」(自立)と、

「ゴトンロヨン」(相互扶助)を スローガンとし、 国外的には

反新帝国主義と 反新植民地主義と 戦っておりました。

それを アメリカは 共産主義者でない スカルノを

コミュニスト(共産主義者)とし、 〝敵〟とみなし

アメリカの連盟国(45ヶ国)と 提携し、 インドネシアに

〝経済制裁〟を かけてきておりました。

当時、 中国は 国連に 加盟しておらず スカルノの 働きで加盟。

スカルノは 中国の 毛沢 東主席、北朝鮮の 金 日成主席、

ユーゴスラビアの チトー大統領、 エジプトの ナセル大統領、

インドの ネルー首相、 キューバの カストロ大統領、

革命の英雄 チェ・ゲパラ、 ガーナの エンクルマ大統領、

ケニアの ケニヤッタ大統領、ギニアの セク・トゥーレ大統領、

ベトナムの ホーチミン大統領、 カンボジアの シハヌーク殿下と  

親しくしていたのです。



1965年以前の インドネシアは 容共的な(アメリカから見て)

スカルノ大統領のもとで インドネシア共産党は 350万人もの党員と、

傘下に多くの 大衆団体を抱える 有力な政治勢力の ひとつでありました。 

しかし、 かねてから それを快く思っていなかった  陸軍は、

その力を削ぐ機会を 狙っていました。

スカルノ大統領の 親衛隊の一部が、 アメリカらと通じて 大統領の 暗殺を

目論んでいた アメリカで 訓練を受けた 軍部のトップ  6人の要人を

殺害して しまうという 〝事件〟が起きました。 

これが 有名な 〝9.30 事件〟です。 (実際には 9月30日ではなく

10月1日未明に 起きた事件です。)

当時  軍部の7番目であり 事態の収拾にあたり、後に 大統領になった

スハルト少将らは、 即座に 10月1日早朝、 放送局を占拠、

背後で〝事件〟を操っていたのは 共産党だと発表、  非難しました。

そして 国民感情を あおり、 憎しみを募らせ 復讐を叫び

〝赤狩り〟と称し、 スカルノ派の人達を 虐殺し始めたのです。

3年も続いた 大量殺人を 正当化したのです。 

アメリカは もちろんのこと 国連も 全世界からも 無視された

非情極まる 大虐殺。

当時、 どこからも 何の救済も 全く ありませんでした。

9.30事件の 詳細な経緯については、 スハルト政権崩壊後の

今日においても、未だ闇の中に包まれているのです。



はじめに 9. 30 事件(実際には 10月1日未明)の 歴史的意味を、

そして この本を執筆する その背景を 綴っています。



第Ⅰ部 左傾化する スカルノ政権

 第1章 新植民地主義との 闘い
  
 第2章 対立を内包した スカルノ体制

 第3章 台頭する インドネシア共産党 (PKI)

第Ⅱ部 二つのクーデター  ・・・・・ 9.30 事件と 3.11 政変

 第4章 9月30日の事件

 第5章 「3.11 政変(スープルスマル)」 ・・・・・ もう一つのクーデター

第Ⅲ部 社会暴力

 第6章 大虐殺

 第7章 大虐殺の 背後に見えるもの

 第8章 スケープゴートにされた 華僑・華人たち

第Ⅳ部 新たな 秩序による 再編

 第9章 新秩序 (オルデ・バル)の確立と 国際関係の再編

 第10章 マレーシア闘争の 終了と 西カリマンタン 農村社会の再編

  ・・・・・ 「デモンストラシ・ダヤク」

 第11章 不隠分子の排除と 政治的安定

おわりに ・・・・・ そしていま


著者からの メッセージ

半世紀前、 デヴィ夫人の夫 スカルノ大統領を 失脚させた

インドネシアのクーデターは、 多くの人命を 奪ったすえに

アジアの 国際関係を 一転させ、我が国の 歩む道をも

方向づけた。  その真相を いま ここに 解き明かしたい。




9.30事件のあと、 ベトナム戦争や 中国の文化大革命が

起きました。

そして、 スハルト新体制が 確立するとともに インドネシアへの 大規模な

日本の 経済進出が始まったのです。

これを契機に やがて 日本は 世界の経済大国へと

上り詰めていくことに なるのです。

共産主義者が 逮捕・虐殺され、 強いナショナリストであった

スカルノが 排除されたことによって 初めて可能になった

大転換だったのです。

今の日本があるのも  この事件が 無関係ではないのだということを

皆さま 是非 考えて頂きたいと思います。



岩波書店の 岩波現代全書 028

9.30 世界を震撼させた日   インドネシア政変の真相と波紋〟

倉沢  愛子  著

定価 (本体2,300円+税)



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