11月8日に 肝臓がんのため 75歳で亡くなった

歌手 島倉千代子さんの 告別式が 青山葬儀所で 営まれました。

 

この日、 式場には 芸能関係者 1,000人、 一般人 2,000人もの参列者が

長い列を作っていました。

私も お別れをしに 行ってまいりました。

祭壇は リンドウや からたち、 トルコキキョウなど 1万8000本の

紫と 白の花々で 紫の 着物の襟を合わせた イメージ。

また、 薄紫のお棺の前には 1999年に 受賞した 紫綬褒章や

生前 愛用した 白いマイクが 飾られていました。



島倉さんと 私は おかしな縁で 結ばれていました。

私達には ひどい目にあった 一生涯 思い出したくもない

二人に共通の ある人間  K・T  がおりました。

この K・T は、さすがに 勇気がなかったのか 来ていませんでした。

しかし、 あたかも 来ていたかのように ブログに 自己宣伝を アップしており、

故人を 冒涜すようなことを  していました。

この K・T にも  敵があり、 彼を 忌み嫌い、 憎悪している 嫉妬深い

〝ニセ王子〟がいます。

このお話は 今回は ここまでに しておきますが・・・




 

会場の 外の通りにも 島倉さんの 死を悼み 多くの 一般の参列者が

列をなしていました。

 


島倉さんは 亡くなる3日前 自宅で録音、  最後の歌を 吹き込みました。

録音は 15日に予定されていたのを 彼女がその日まで待てないと

まるで 死期を 悟ったかのように、  急遽、 自宅の 彼女の部屋に スタジオを

作り、 新曲 “からたちの小径(こみち)”が 録音されたのでした。

「私の 部屋の中に スタジオが出来て そこで 私は 出来る限りの声で

歌いました。 自分の人生の最後に、 二度と見られない風景を

見せていただきながら 歌を入れられるって、こんな 幸せは

ありませんでした。」と 語られ、

その言葉で 葬儀が始まりました。 大変 弱々しい か細い声でした。

このような 状態で 歌を 歌えるのかと 思いました。
 
シンガー・ソングライター の 南こうせつ氏は 一回しか 歌えないと

思ったところ、 頑張って 3回も 歌われたとのこと。

彼女の 〝歌手 魂〟は 本当に ものすごいものだと 思いました。

あちこちから すすり泣く声が  聞こえてきました。

私も 同じく 涙が 止まりませんでした。



最初の弔辞は テレビ東京 代表取締役社長 島田 昌幸氏。

時代の 流れにそって歌った 島倉さんを讃え、 日本人の心を 虜にした

彼女への賛辞と “ありがとう”という 感謝の言葉でした。

続いては 同じく コロンビアの後輩歌手の 石川さゆりさんでした。

彼女が 小学校1年生の時、 熊本に公演で 来ていた島倉さんの歌を

目の前で 聴き、 夢を見、その時から 彼女に 憧れて 歌手に なったとのこと、

それ以降、 ずっと 慕ってきた 石川さゆりさん・・・

石川さゆりさんの弔辞は 島倉さんとの思い出、

初めて 紅白歌合戦に出た時、 手を握って

「美空ひばり先輩、 島倉千代子、 都はるみ・・・あなたも 先輩からの 流れを

自覚して 頑張るんだよ。 来年も ここで 歌うんだよ。」と

言われたこと。 優しい島倉さんでしたが、 時に厳しかったと

「仕事を丁寧に 一生懸命やること」、「礼儀正しくあること」を 教えられ、

 一緒のお仕事の時、 島倉さんより 早く 仕事場に入ろうと 思って

2時間前に 楽屋入りしたら、 既に 仕度が終わった 島倉さんがいたという

エピソードなど、彼女が どんなに 素晴らしい 温かい先輩だったかを
 
紹介してくれました。

亡くなったことを 電話で 都はるみさんに お伝えしたところ

「島倉さんは 心の砕けるような 苦労に耐えてきた人。

大阪で 仕事なので 島倉さんに よろしく伝えてね」と言われたことも・・・

 

次に 弔辞を読まれた方は “島倉千代子という人生”という本を書かれた

田勢 康弘氏でした。



葬儀委員長は 日本コロンビア 株式会社 代表取締役社長の 原 康晴氏、

そして、 友人代表・副委員長は 株式会社 バーニング・プロダクション

代表取締役社長 周防 郁雄氏でした。

このお二人の名前で “愛する あなたへの 手紙”という

ご挨拶状が 配られました。



“こころ” という文字は 島倉さんの直筆です。





出棺の時には 島倉さんの “人生いろいろ” が 流れ、

全員が口ずさみ、手拍子まで 起こり、 車が動き出すと

〝ありがとう〟の言葉で 見送られていました。

そして、 あちらこちらから 「千代ちゃ~ん!」 「お千代さ~ん!」と

〝声援〟まで  飛んでいました。

この様子を 見ていた ミヤネ屋の 宮根さんも 「彼女は 最後の最後まで

みんなに パワーを与えてる。」と おっしゃっていました。



島倉さんは 都内の寺院に すでに ご自分で お墓も 用意してました。

インドで 採れた 黒御影石を使った ピアノをかたどった 流線型の
 
デザイン(彫刻家 流 政之氏)の お墓です。

この墓石の 正面には ご挨拶状の 文字 “こころ” が 記され

その横に 戒名 「寶婕院千代歌愛大姉(ほうしょういんせんだいかわいだいし)」

〝美しき 日本の 宝の人 千代(永久)に歌を 愛する 歌愛い(かわいい)人〟と

いう意味を持つ 戒名が 書かれ、 背面には 「島倉千代子」の 俗名とともに

「島倉忍」の名が 並んでいるとのことです。

「忍」という文字は 藤本 勝巳 野球選手と 結婚していた頃

 3回妊娠したけれども  一人も この世に 生まれてくることができなかった
 
子供を想っての ことだそうです。   心の底から 泣けますね・・・

 
 

 
 
島倉千代子さん どうぞ 安らかに お眠り下さい。

謹んで 心より ご冥福を お祈りいたします。

合掌