週末は 私の母校である 港区立笄(こうがい)小学校の
クラス会に行ってまいりました。 卒業してから 60年。
72歳のクラスメートが 16人も集まるのは
大変 めずらしいことなのだとか。
校舎は 立派な鉄筋コンクリート建て。 私が通っていた頃は。。。
廊下は まだ木でした。 (今でいう フローリングですが。。。 昔のは)
お雑巾を縫うことを 教えられて、 そして バケツに 水を入れ、
交代で お掃除をしました。
校庭は 競技場のように なっています。
昔は 校庭の真ん中に 大きな桜の木が 一本ありました。
そして その後ろに 大きな講堂が ありましたが
今は消えて なくなっていました。
左端の 25メートルのプールは そのままあり、
とてもきれいに なっていました。
このプールのおかげで 私たちは 泳げるように なったのです。
泳げない者は 皆 先生に突き落とされ、
開校80周年の時に 撮影された 航空写真です。
『笄』 という字は 全校生徒さんたちで つくられています。
明治40年に開校した 歴史のある 小学校です。
私たちは 国民学校の 最後の生徒でした。
そして、 私達は 『皇国民教育』 というものを 受けました。
その時の歌、 匡民学校の歌を ご紹介しましょう。
ガッカウ
一、 ミンナデ ベンキョウ ウレシイナ
コクミン ガッコウ 一ネンセイ
二、 ミンナデ タイソウ イチニッサン
コクミン ガッコウ 一ネンセイ
皇国民教育(1940~1946)は 6年間しか ありませんでした。
終戦(1945年)の翌年に 廃止されました。
そして、『港区立笄小学校』と なったのでした。
集団疎開、空襲による学区域全焼。 いろいろなことが ありました。
現在の 家庭科室。
代表委員会、 運動委員会、 放送委員会。
ボランティア委員会 という文字も 見えます。
青の世界? みなさん、 絵が とても お上手です。
笄小学校は 霞町と日赤病院下の間に あります。 今の西麻布です。
インターナショナルな 場所柄、 外国人のお子さんも 少なくなく、
校内には 英語表記が。
財務省では 今、こんなプログラムも 行っているようです。
『がんばろう 日本』。
私達の後輩たち。 可愛らしい笑顔で 「ハイ、ピース」。
キュートな お嬢さんと ツーショット。
このお嬢さんは 私たちと同じく 笄小学校を卒業後、
日赤病院前にある 『高陵中学校』に 通っています。
その後、 私たちと同じように 『都立三田高校』に 進むのかしら。
クラスメートたちとも 笄小学校を後ろにして
表階段の所で 記念撮影しました。
クラス会は 中国大使館と有栖川公園の間の 旧テレ朝通りにある
同級生が運営する 『来々軒』で。
学校の裏側から 懐かしい道を 歩いていきました。
有栖川公園には よく写生に 行ったものです。
同級生たちと お店の前で 写真を撮りました。
皆 一人づつ 近況を 紹介しました。
中には3人 軽い脳卒中を起こし 元気になった方達が いました。
私も 1月に 階段で 着物の裾を踏んで 全治2ヶ月のケガをした
お話をしました。 やはり 年を重ねると 健康を害した経験や 心配の
お話になります。
思い出話に 花が咲き、 時間の経つのを忘れる ひとときでした。
髪の毛が すっかり薄くなり、 昔の面影は どこへやら? の人や
クラスで一番の乱暴者が すっかり優しくなって
奥様のことを話され 涙したり、
優秀だった女生徒たちは 郵便局長となったり、 教員となったり、
勉強が出来なくて 普段はおとなしいけれど 体育の時だけ強かった人が
すっかり 雄弁家になっていたり。
同級生って 不思議なもの ですね。
ずっと 教職に就いていた宮崎さんが、 私たちが 6年間お世話になった
田中幸代先生の頃は 「年金が月30万円づつ 支給されていたけれど
ご自分は 20万円で、今の方がずっと物価が高いのに。。。」
と おっしゃっていました。
私は 興味深く 聞いていました。
未来の人たちの年金は もっと少なくなるのかしら。。。