皆様、 「板門店」 ってご存知ですか?
平壌からおよそ200kmにある、 歴史的な悲劇の場所です。
1950年から1953年にわたる朝鮮戦争によって、
朝鮮半島は北緯38度を中心に、 民族の分断を余儀なくされました。
現在、 全長240kmに及ぶ軍事境界線 (非武装区域とも) が引かれ、
人々は、 耐え難い苦痛を強いられています。
平壌から、 高速道路 (もちろん無料です!) をひたすら走ります。
気がつくと、そこは田園風景が広がります。
沢山の山を越えて、車はひたすら真っ直ぐに走り続けます。
高速道路は、 整備されていて とても綺麗です。
美しい湖もあり、 しばし 外を眺め、近くて遠い日本のことを考えたり。
田んぼでしょうか、 畑でしょうか、 くまなく耕されていました。
板門店に近づくと、 開城 (ケソン、 朝鮮半島が一国で
王が統治していた頃の首都) の町が見えてきました。
板門店の入口に着きました。
可愛らしい看板には、 「祖国統一を後世に」 とあります。
民族分断の悲劇を知ってもらうために、観光客を受け入れているそう。
緊迫した雰囲気に、身が引き締まります。
物々しい警備が厳重です。
38°線の 共同警備区域の 地図の前で。
Korean Tourist Company と書かれた観光バスが沢山訪れてます。
日本の皆さんも自由に訪れることが出来るんですよ。
片寄った報道や マスコミに惑わされず、 北朝鮮を訪問されたら
宗教文化交流親善代表の 池口 恵観大僧正猊下のご一行(20名)に、
偶然お会いしました。
その前の広場です。
いよいよ、 共同警備区域内に入ります。
私たちの車には、 護衛兵が1名つき、 一緒に車に同行します。
軍事境界線をまたぐ形で、 停戦会議場があります。
南北間の会議は、 こちらで行なわれました。
このテーブルの半分手前は、 北朝鮮、 奥は韓国側です。
私は、 中央(真ん中)に座ってますね。
南北戦争にかかわった国々の国旗です。
皆さん、 突如 日本がアメリカとロシア(例として)の外敵圧力によって
戦争が始まり、 名古屋あたりで 国が分断され、
中部・関東・東北・北海道を ”北日本”。
近畿・中国・四国・九州・沖縄が ”南日本” と分断され、
同じ民族同志でいがみ合うことになり、 ”北日本” はロシアの影響下、
”南日本” はアメリカの影響下になり、 ”北日本” はアメリカの同盟国から
経済制裁を受け、 ”南日本” はアメリカや同盟国の支援でのび 繁栄する
ことを想像して下さい。
皆さん、 朝鮮の方の 「祖国統一」 を願う気持ちが理解出来ましたか?
36年間、 日本が朝鮮半島を植民地とし、 世界大戦で 日本が負けた
5年後、 朝鮮戦争が起り、 この建物の中で 南北協定調印がされました。
北側がたった5日間で建てたそうです。
何もなかった所で、 アメリカは調印をテントの中でするつもりだったようです。
森の中に突如、 国の威厳をかけて 5日間で作った建物に アメリカは仰天し、
セットではないかと 壁を力づくで試し、 本物かどうか確かめたそうです。
この近くに 金日成主席の 「祖国統一」 を切望する碑が建っています。
左には、金日成主席の直筆を彫った石碑が。
金泳三大統領との 「南北首脳会談」 を準備する案件にサインしたもの。
祖国統一のため、 文献を深夜まで点検されサインし、
そのまま夜を明かし、 翌日の明け方に執務室で亡くなられたそうです。
力を込めて、 ガイドさんが説明してくれました。
向こうの大きな建物は、 後から建てられた 韓国の 「自由の家」。
1953年 当時そのままの 協定調印会場の前です。
協定調印会議場を見学します。
協定調印会議場の中に 当時の貴重な写真等が現在 紹介されてい
ますので、 ここにご覧にいれます。
調印当時の記録写真
1950年代 平壌に40万人の人口がありました。
米軍は45万個の爆弾を投下し、 平壌は真っ平になる程の爆撃に
あいました。
そこから 北朝鮮は現在のように立ち直ったのです。
この板門店ツアーは、今回参加した若者が、
皆、 深く考えさせられたと言っておりました。
他国は無論のこと、 自国のことも深く知らずにいる自分達に
気付かされたと言います。
これがきっかけとなり、 彼らに日本の歴史を深く学び、 理解しあい
日本が犯した罪を認め、 お互い許しあい、 ”日朝” 手を取り合える日を
目指し つくりあげていく 一手になっていただきたいと思います。
「日朝国交正常化」、 日本の首相 小泉総理が署名した 「平壌宣言」
が行なわれ 平和を取り戻し 両国が繁栄することを願っています。
皆さんのお声をお聞かせ下さい。