私が40年間の海外生活から日本へ戻ってきて、
一番素晴しい出来事は、相馬雪香先生にお会いしたことかもしれません。
相馬雪香先生のお名前は、一般の方にはあまり知られていないので、
簡単にご紹介致します。


デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba-1

 故 相馬雪香先生


明治の時代、東京市長などを歴任し、「憲政の神様」 と言われた
政治家尾崎行雄氏(咢堂)の三女としてお生まれになった方です。
国会議事堂の前に “憲政記念館” がございますが、
これは、相馬雪香先生のお父様を記念して建てられたものです。


沢山の偉業をなさった相馬先生に、私どもは皆、

100歳まで生きていただきたいと手を合わせておりましたが、
昨年12月8日に老衰で死去、96歳でした。


昨年12月25日、「相馬雪香先生を追悼し感謝する会」が、
憲政記念会館ホールにて行われました。


第一部の追悼式では、寛仁親王殿下のお言葉、
麻生太郎内閣総理大臣、
日野原重明氏(聖路加国際病院 理事長)、
森山眞弓氏(元法務大臣・尾崎行雄記念財団 理事長)、
柳瀬房子氏(難民を助ける会 前理事長)らによる弔辞、
河野洋平衆議院議長、江田五月衆議院議長の献花、
ヴァイオリニスト 天満敦子氏による追善演奏などが行われました。
また、第二部の感謝の会には皇后陛下までお越しになられました。


私は相馬由香先生とは、「難民を助ける会」を通して、
今らから11年前にお会いする機会に恵まれました。
私が理事長を務める “NPO法人 アースエイド ソサエティ” が、
日本赤十字社、「難民を助ける会」にご寄付をさせていただくことで、
憲政記念館に相馬先生をお尋ね致しました。
そこで私は、小柄で痩身の相馬先生に初めてお会いしましたが、
「この痩身なお体の、いったい何処に絶大な情熱を秘め、
エネルギッシュな行動が出来るのか?」と、敬服の至りでした。
とてもお優しく、自然なお方でした。


この方を称えた新聞記事に、
『疲れ見せず、草の根29年』 とその活動が紹介されておりましたが、
相馬由香先生は、67歳のとき「日本は何もしない」と憤慨され、
NPO法人「難民を助ける会(前インドシナ難民を助ける会)」を

立ち上げられました。


当初は、母国の争いを避け日本にきたインドシナ難民を救う目的でしたが、
これまでにベトナム、ケニアなど50ヶ国以上に医薬品、衣料品、食料の提供、
対人地雷廃絶運動、障害者支援など、息絶えるまで続けてらっしゃいました。
お父様尾崎行雄氏ゆずりの、凛としたその一生は、両陛下に労われました。
天皇皇后両陛下から御所にお招きいただき、
「30年間、ご苦労様」というお言葉をいただいた相馬先生は、
はじめて涙を流されたということです。


私はご寄付をさせていただくにあたり、
多くの色々な福祉団体の中より、「難民を助ける会」を選んだのは、
政治の犠牲になり、生まれ育った国を追われ、
飢え、寒さ、恐怖に震えている人達に特別の思い入れがあったからです。
そして私は多くのことを相馬先生より学ばせていただきました。
その中でも、一番素晴しく、心を震わせたのが、


「許しあうということがなければ、世界に平和は訪れない」


という言葉です。
私も絶対、これこそ真実だと思いました。


相馬先生は、戦後、モラル・リアーマメント、略してMRA(道徳再武装)の
運動に参加することによって、人間が変わったそうです。
平和は武力の制限ではなく、精神の改造によってこそ行われるという、
ドクター・ブックマンが創めた世界的な運動。
のちに、「再武装」 という言葉が戦争をイメージさせるとのことで
「イニシアチブ・オブ・チェンジ」 と改められました。


パレスチナ、イスラエル問題など、世界の各地で紛争が起きていますが、
両国が許しあわなければ平和が訪れてきませんし、
戦いに終わりがありません。
許しあうこと、それはお互いを理解し、尊重しあうことが、
どんなに大切なことか、一度皆様にも考えていただきたい。


先生のエピソードを、ここでちょっとご紹介させていただきましょう。

(追悼のしおりより)


 * 「世の中を変えるのは難しいけど、まず自分が変わらなきゃ」
    というのが先生の口癖でした。


 * 「さようなら」と言わない方で、取材を終えると、にこっと笑って
   「またお会いしましょう」と言われるそうです。


 * スタッフに「お疲れ様です」と言われると、いつも「疲れてない」と
   怒りをあらわにされるので、事務所内では
   「お疲れ様」が禁句になってしまったほど。


凛とした一生を送られた相馬雪香様、
どうぞ安らかにお休み下さいませ。

                             合掌