皆さん、たくさんの質問とたくさんの温かい血の通った反応、
本当にありがとうございました
メンバーがこうして順番に質問に答えたり、同じテーマで何か
を答えていくのって、、、凄く面白いですね
ということで第2弾
メンバーそれぞれが現在オペラ歌手として活躍していますが、
今に到るまでの生い立ちや節目節目の選択、出来事、などを
歌を中心に綴ってみようと思います。
まず、言いだしっぺの自分、つっくんから。
歌との出会いは、生まれた時から。
両親が共に声楽家で、家ではいつも歌や音楽が流れてました。
母親はソプラノ。
母は藤原歌劇団の合唱部に所属しており、お世辞抜きで素晴
らしい声の持ち主でした。時の藤原義江さんが、オーディション
の際に、「君は合唱でなくソロ団員になれますよ」という誘いにも、
無欲で歌の世界の人間関係が好きでは無かった母は合唱団に
所属。今までに父親と共にNHKが招聘したイタリア歌劇団など
で、モナコやクラウス、若いパバロッティやドミンゴ、カレーラス
などの後ろで歌い、最近売り出されているDVDなどで若かりし
頃の両親の姿を見ることが出来ます。
そして父親はテノール。
バスの高橋啓三さんと高校時代からの友人。
6人兄弟の長男である父は、なかば勘当されたような状態で
歌の世界に飛び込みました。中学生の頃、扁桃腺の手術を
したのですが、今と違い昔は扁桃腺の周囲の大事な筋肉ま
で取り除いてしまったらしく、父親はいわゆるのどち○こがあ
りません。その影響で歌うことに様々な障害がありましたが、
努力をして当時はかなり活躍していた歌手です。イタリアに
留学してパバロッティの先生、若かりし頃のアリゴ・ポーラに
師事しました。20代後半ですでに自分が居ましたから、本
当に分刻みで合唱指導や録音仕事、オペラの稽古と飛び
回り、家族を音楽で支えてくれました。
すでに父親には負けてます
家族を養う為に夢を諦めた
り、いろんな犠牲があったと思います。そんな父親にいろ
んな舞台に立ってる姿を見せることが、自分の親孝行で
すし、叶えられなかった夢を親子2代で叶えているような
気持ちで、この気持ちが自分の今を支えています。
幼少期:
自分は両親が指導をする少年少女合唱団に入りました。
そこでたくさんの同世代の仲間と知り合い、一人っ子の
自分にとっては兄弟みたいな大事な存在でした。
合唱団では、ア・カペラの曲を中心にハンガリーのコダーイ
やバルトークなどの作品をたくさん歌いました。
中学生の頃、ハンガリーで開かれるフェスティバルに参加
するため、演奏旅行にハンガリーを訪れ、世界コンクール
で常に1位のカンテムス少年少女合唱団と共演し、余りの
ハーモニーの美しさに鳥肌立ちました。
ハンガリーという国は、音楽家になる人は少ないですが、
一流の観客を育てる国だと、当時耳にして、なるほどな
と感銘を受けた記憶があります。
ちなみに初めて海外に行ったのは小学5年生。
両親の合唱団がイタリアに演奏旅行に行ったので、
連れてかれました。意味分からずスカラ座前で写真
撮ったりしてるのがあります(笑)当時はヨーロッパに
行くにはアラスカのアンカレッジ経由でしたから、
アラスカ上空を飛んだ際にオーロラなんかが見れて
大興奮した思い出があります。
小学生時代、頭も悪いしいつもぼーっとしてましたし、
運動もも大して出来ず、本当に何のとりえも無かった
のですが、唯一歌だけは、違いました。
良くある歌の試験で、みんなが同じ歌を順番に歌いましたが、
一通り終わってから先生が「誰かもう一度歌って欲しい人~」
というと、クラス中のみんなが「おーつきく~ん!」と一斉に声
をあげました。あの時の気持ちは忘れられないです。
ちなみにチム・チム・チェリーを歌いました
これが自分の原点ですね♪
青年期;
変声期が終わっても裏声で合唱団には所属し続けてました。
でも、中学高学年~高校時代は、学校の男友達と遊ぶのが
楽しくて、とにかく良く遊びました♪かなり悪かった、、
この頃からアルバイトを始め、東ハト(キャラメルコーン)や
東海デイリー(セブン・イレブンの惣菜)という会社の工場で
働き始めました。
私語厳禁で更に全身完全防備ゆえ、出ているのが目だけ
、、、職場の仲間も男なんだか女なんだか分からないよう
な環境で、とにかく黙々と汗水垂らして働きました。
中学高校時代にもう何もやること無い!ってくらいに遊ぶ
だけ遊び、気が付いたら高校3年生。
腹を括って進路を音大に絞り勉強始めました。
本当に今考えても、この1年間ほど勉強した時はありません。
高校の授業の時間割を、全部自分で楽典やソルフェ、など
などの必要な科目に割り振り、オリジナルの時間割を作成し
て、授業中にまったく別の勉強をしてました。
ちなみにピアノを始めたのも高校から。
試験に必要な曲だけ練習しました(笑)
聴音は親父に弾いて貰ったり、自分で弾いて録音したのを
写譜してましたし、歌は親父に習ってましたし、本当にリー
ズナブルに大学受験を迎えました(笑)
大学受験は芸大1本。理由はそこしか経済的にいけないから。
でも、現役でしたし、父親のお弟子さんたちが毎年すさまじい
努力をしつつも滅多に合格せず、4浪5浪は当たり前の大学
で、子供時代にもにこんな立派な声の人が落ちるんだ~と驚
いてましたので、現役で入れるとは思ってませんでした。
入試では、試験はもちろん緊張しましたが、何よりも同世代
で同じ声楽を志す男性たちに会えるのが嬉しくて、いつしか
試験よりも試験が終わってからみんなと上野の街でお茶し
て話すのが楽しみになってしまいました。そんな仲間が1次
2次3次と最初は10人くらいだったのに、最後は3人になり
ました
入試では“Piango gemo”という古典歌曲で入りました。
大学時代;
現役で運良く合格して、オペラ歌手を目指すみんなと楽しい
大学生活を満喫するぞ♪と意気込むも、、、実は余り求めて
いた友人に出会えず、というか、みんな音大に向けてやりた
いことを我慢して必死に頑張ってきたから、大学入ってから
弾ける人が多く、自分と真逆なのと育ちや家柄が良い人が
多くて、経済的にもついて行けず、歌の練習はとにかくしま
くりましたが、それ以外はほとんどバイトに明け暮れてまし
た。
大学時代は往年の名テノール、カルーソーが肉屋で働いて
いたということと、運転免許を取り立てで、配達の仕事をして
運転技術を磨きたいということから、地元の肉屋でずっと働
いてました。朝の8~夕方17時までを週に4~5日。
おかげで大学4年生が一番1年生みたいなカリキュラム
になってしまい、2年までで終わるはずのソルフェや体育
の授業を4年までかかってました
肉屋の仕事は本当に壮絶でした。
個人経営でとにかく全てをやる店だったので、
肉を取り扱う全てをやりました。ここでは書けない事もた
くさん経験しました
でも、この時の肉体労働が自分の歌う身体を作ってくれた
のも確かです。大変でしたが、やりがいのある仕事でした。
大学院に1浪(語学で見事落ちました
)で入り、
浪人時代から新しくコンサートホールの案内業務のバイト
を始めました。ここでの仲間が本当に本当に掛替えの無
い仲間で、いろんな大学いろんな生い立ちを持つ一般の
方々でしたが、皆一様にクラシック音楽を純粋に愛してお
り、音大に求めていた友人像がまさにここにありました。
彼らは皆、自分のように舞台に立つことを目指す者を心か
ら尊敬して応援してくれました。
働いていたホールは、東京芸術劇場、東京国際フォーラム
、NHKホール、新国立劇場、文京シビック、などなどの都内
の主要コンサートホールでした。
時給は非常に安かったですが、とにかくこの時はありとあら
ゆる生の演奏会を無料で聞くことが出来ました♪
いろんなお客様がいたり、これもここでは書けないような
お話もありますが、本当にこの時の経験は今の自分を支
える礎になっています。
華やかな舞台に立つには、これだけの人が支え、関係してい
るんだという事を身をもって体験しましたし、良い演奏会の時
の客席から出るエネルギーというか幸福感で満たされた空間
も、裏方だからこそ、強く感じることが出来ました。とにかく、当
時は評論家さんたち以上に演奏会を聴いていた確信がありま
す(笑)
留学期;
自分は「うたうこと」(Fフスラー著)という発声を音声学的な見地
から解説した本の翻訳者である、大熊文子先生に大学3年次
から習っていましたが、先生がドイツに永住をすることになり、
ちょうど自分も留学がしたいという気持ちが募っていた時期で
もあり、先生を追いかけるような形でドイツのシュトゥットガルト
音楽大学のリート科に籍を置き、大熊先生のレッスンや愛犬
ジーリ君の世話(笑)などをしながら、イタリアやあちこちの先
生の元を訪ね、聴講したり実際にレッスンを受けたりしていま
した。
ドイツを選んだ理由としては、当時の自分はイタリアへの憧れ
の方が正直強かったのですが、イタリアへ行ったら、きっと声
の事に執着してそれだけで終わってしまうと感じました。
ドイツへ行き、自分の中に無い音楽的な引き出しを増やし、
こういう表現がしたいからこういう声が出したいという思いが
膨らんだら、その声を手に入れる為にイタリアへ行こう。
という考えでも悪くないと思いました。ヨーロッパは繋がって
ますからね♪
いろんな先生がいて、いろんなことを言われ、気に入られたり
もしましたが、気に入る先生はクセまで気に入りますから、
やはり自分が抱える根本的な壁を越える術を教えてくれる先
生には簡単には巡り会えませんでした。
もちろん、留学時の自分の力量のせいもありますが、日本人
が抱える根本的な壁を理解し、それを乗り越える術を持ち、
根気良くそれに付き合って下さるような先生はなかなかいま
せん。
彼らは話す言語や生まれつきの骨格などで、意識をまったく
しなくとも自然と身についている部分が多く、我々日本人は
まさにそこが手に入れたいのです。
その時、それなら日本人やアジア人で、すでにヨーロッパで
認められている歌手に習えば、彼らはその壁を越えてるか
らこそ、認められてるのだと考えました。
自分は自費留学ゆえ、留学資金が尽きては日本に帰り、
オペラシンガーズやアルバイトを短期でして蓄えて、戻る
という生活を繰り返してました。
その時に東フィルのオペラコンチェルタンテ「イエヌーファ」
で小山由美さんが歌うのを聞き、衝撃が走りました。
一瞬で自分が手に入れたい物を持ってる歌手だと確信
しました。
小山先生はバイロイト音楽祭でも日本人として度々出演
し、まさにヨーロッパで認められている日本人歌手です。
その時からずっと習いたいなぁ、、、と思っていたら、
風の便りで、先生が自分が留学しているシュトゥットガル
トから近い町に住んでいると聴き、慌てて電話帳で調べ
てアポ無しで電話をして、レッスンをして頂くようになりま
した。
先生には本当にお世話になり、大熊先生のところで音声学
的なアプローチが身体に染み付いていた自分に、生きた言
葉とエネルギーを吹きかけて下さり、まさに点と点が繋がった
瞬間でした。
この二人の先生のおかげで演奏家としての今の自分が
あります。
留学時代にもたくさんの仲間に恵まれました。
ドイツでドイツ人以上にたくましく生活しているバリトンの
吉原輝さん。忙しい毎日なのに、いつも気に掛けてくれ
てお世話になりました。そして住んでいたアパートの近所
にはソプラノの天羽明恵さんがいて、良く日本食が恋しい
なぁと思うと、「おでん作ったけど来る~?」呼んで下さい
ました。
とにかく海外で演奏活動を続けられる歌手は、本当に
エネルギッシュで強いです。選ばれし強さを持ってま
す。
自分も留学するだけでなく、舞台に立てないかと思い、
20代の若さではありましたが、ベルリンドイツ・オペラ
でとあるオーディションを受けました。
結果はダメでしたが、その時の模様をビデオに録画して
プレゼントしてくれて、良い想い出になってます♪
調子に乗って1本歌い切れない「ファウスト」のハイC
出すアリアなんて歌ったせいです、、、アハハ。
海外で歌うことは実はそんなに夢ではなく、日本のお客
さんに聞いて欲しいというのが基本的にメインですが、
一度はヨーロッパの劇場に立ってみたいという欲求は
ほんの少しだけあります♪
いつか挑戦してみますかね。。
そんな感じで2年足らずの留学を終えて、帰国し
二期会オペラ研修所のマスタークラスに入り、
修了してすぐにあった二期会オペラのオーディション
を受けましたが、結果は不合格。
でも、その時に聞いて下さったマネージャーさん
が気に入って下さり、ノルトハウゼン歌劇場の来
日公演「アイーダ」に伝令役で歌うお仕事を依頼
されました。
それから自分のオペラ歌手としてのキャリアが
始まりました。
このマネージャーさんは、それ以後も本当に大事
な節目節目でチャンスを与えてくれて、今の自分
を語る上では、欠かすことの出来ない存在です。
感謝してもし尽くせません。
実は自分は外人さんが余り得意では無く、外人に
負けたくないという古いタイプの日本人なのですが、
幸か不幸か、今まで外人さんと一緒に歌う機会に
恵まれたのも、この方が日本人で外人の音色に
違和感無く溶け込めるからというご判断のおかげ
だと思っています。
いやぁ、長々書いてしまいました。
オペラ歌手になってからのことは現在進行形です
が、歌手として舞台に立つまではざっとこんな感じ
です。
オペラ歌手を志す音大生や興味ある方に少しでも
参考になれば良いのですが。。
自分は今日オフだったんで、長々書きましたが、
他のメンバーの皆さん、こんな長くなくていいの
で、ぜひ“ オペラ歌手になるまで ”書いてみて
下さい♪♪
byつっくん。
1:Janetさん
喉のために日頃していることや、気をつけていることがありましたら教えて頂きたいです♪♪
★喉のために日頃していることは、単純なことなんですけど、特に電車に乗っている時など必ずのど飴をなめることです(笑)。僕はとにかく喉の乾燥がダメなので、、。風邪などの予防にもなっているような気がしますし。。日ごろからこういう習慣をつけて、本番、特に舞台上で長時間歌うまで待つような第九や宗教曲を歌う時は、同じ飴を口の中に放り込んでから舞台に入ったりします~。