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デヴォンズゲート

映画をとことん冷めた目で見る男「デヴォン山岡」による、
独自の視点による映画感想文。

 

 アニメ『攻殻機動隊』の一体何が凄いのかっていうと、それはもうヴィジュアルに尽きるわけでして、でもどんな映像なんだと言われるとちょっと困る。だって説明しようが無いんです。美しいとかスタイリッシュとか、そういう安直な表現で済まされるようなものじゃねーし。


しいて言うなら「俺の脳内に残されている、思い出す限りもっとも最古な記憶の中の街が再現されている」としか説明できません。

 

つまり2・3歳の頃に、おばあちゃんなんかに連れられて駅前の繁華街を歩いたときの恐怖とか不安とか、初めて感じる得体のしれない刺激的な感覚みたいなのが、このアニメには詰まっていました。

 

幼心に「ああ。ぼくっていったいなんなんだろう?」って思ったことってあります? 俺はまさに2・3歳のそのおばあちゃんとのお出かけで、自分が何者でこの世界が何なのかがまったくわからなくなってしまって、すっごく不安になったんですが、それを映画化したのがこの『攻殻機動隊』だったわけです。

 

ふむ。そんな幼少期の俺を描いたアニメ作品がハリウッドで実写映画化されるということで、モデルとなった俺になんの断りも無いとは何事だ!などと思いつつ鑑賞した『ゴースト・イン・ザ・シェル』。

 

なんと、実写で例の「知っているようで知らなくて、危険なんだけど魅惑的な世界観」を見事に表現しておりました。完全にわかっている奴が撮っているなという作品。

 

いや、もちろんすべてにおいてハリウッドナイズされているというか、要するに押井守の『攻殻機動隊』にある「闇の世界に片足突っ込んでいるような感覚」は抑えられておりましたが、それでもしっかりとハードボイルドなアクションを引き継いでいる。主演のスカーレット・ヨハンソンは日本人ではありませんが、日本人では無い理由をしっかりと映画内で説明してくれるところがファンにも優しい。

 

結局、アニメ―ション『攻殻機動隊』はすでに完璧な作品であり、敬愛しているファンも多い。それを実写化するにはリスクしか無いわけで、ではどう実写化するかというとやはりリスペクトした作品にするしかないってことが作り手にもわかっている。そこで登場するのが荒巻役のビートたけしです。これが最高。ビートたけし、「ファッキンジャップくらいわかるよバカヤロウ!」などと言いながら大暴れするわけではありませんが、この作品におけるエレガンスな部分をすべて請け負っています。見事な起用。

 

 アニメ版を知らない人なら新鮮な気持ちでこの世界観を楽しめるし、アニメ版が好きな人であればまた別の角度からの攻殻を楽しめます。俺なんかはもうこの実写版大好きで、吹き替え版も観に行きたい。あと同じメンツで続編を作って欲しいとさえ思いますね。『イノセンス』やって欲しいな。

ただ、キャストですが、バトー役はシュワルツェネッガー希望。

 

正真正銘の100点満点!
 

 

 なんと冒頭3分。タイトル前に思いっきりコングさん登場します。

まったくもったいぶらないこのサービス精神はナニゴトでしょうか。しかも全長30メートル! デカすぎます! デカすぎですよあんた! これも作り手のサービス精神のタマモノなわけです。どうせやるならデッカイやつにしようと。

 

で、その巨大なコングさんのおわす幻の島に、寄せばいいのに研究チーム&軍隊が派遣されます。するとどうなるか? もちろん想像通りのことが起きます。人間たちが「我々こそが陸上生態系の頂点捕食者であるッ!」などとマシンガンぶっぱなしながら宣言しようものなら、どこからともなく30メートルのコングさんが登場。武装したヘリコプターをワンパンでブッ飛ばすわ、逃げようとしている地上班を一瞬で踏みつぶすわでもう大惨事。

 

あっというまに軍は機能を失い、無力すぎる残された生き残りのみなさんは、一人また一人と秘境に住むヤベー究極生物たちのエサになってしまうのでありました。

 

 なにが凄いってあんた、コングさんの強力さもさることながら、巨大オオグモや人食いカラスなどの残忍な捕食シーンの数々ですよ。いたいけなベトナム帰りの兵士たちが次々に喰われまくる姿は、まさにディスカバリーチャンネルさながらの弱肉強食。その無駄死にパフォーマンスの数々は、俳優にとって「息子に自慢したい死に方」ランキングベストテン入り確実なものばかりのクオリティの高さです。

 

いいなあ。俺もあんな無駄死にしてみたい。
などと、きっと誰もが「報われない死に様」に魅せられるであろう、圧倒的無力感漂う2時間弱のランデヴー。

 

霊長類最強のコングさんにひれ伏して、今日から君もコング教に改宗しよう!


神のご加護を! 当然100点満点!
 

 

「歌のチカラ」ってなんですか?

 

 たとえばどこかのミュージシャンが「被災地のみなさんを歌で励まそう」とか言っているのを見ると、俺なんかは「いや歌なんかいいからとっとと義援金でも送れや」なんて思ってしまうんですが心がさもしいのでしょうか。

 

 また、限界を超えて走り続けるマラソンランナーを応援するとか言って、安直な応援ソングをみんなで大合唱するみたいなのとかマジで虫唾が走るというか、なぜそれが「応援」になるのかがいまだにまったくわからなかったりするんですが、単に俺が未熟なだけなのでしょうか。

 

 これらはみんな「歌のチカラ」とかいう軽薄なワードが原因で引き起こされる奇怪な風習で、とりあえず「誰かのため」とかいう名目で歌っておけば人助けしたことになるだろうという大きな勘違いを生んでいるわけです。そこに俺はひとことモノ申したい。

 

「歌」は決して誰かを助けるために歌うモノではないと。

 

「歌」は自分自身を救うためにあるんです。

 

誰かを励ますために歌を歌うなんてのは偽善でしかないと思っていて、じゃあ歌は何のために歌うのかというとすべて「自分のため」ですよ。ディズニーにおける主人公の歌は、自分自身の「決意表明」でした。だから人は感動するんです。誰かのために歌うんじゃない。オノレのために歌うんじゃ!

 

そう。

「歌のチカラ」ってのは、自分自身のチカラのことであり、つまり歌うことで自らの持っているチカラ・勇気・覚悟・もろもろの底力を引き出すこと。ふむ。『SING/シング』における「歌」は、歌う人(というか動物)それぞれをどん底から救います。落ちるところまで落ちた憐れな者たちが歌う歌。それは、成功を導くのではなく、たった一歩を踏み出す力を与えてくれるんです。

 

「歌」が背中を押す一歩。
この誇り高き一歩を、ド派手なパフォーマンスで表現したこの作品は、なんとディズニー映画ではありません。

 

キャラもかわいくないし、物語もムチャクチャだし、展開もドタバタです。
でも俺は、ラスト30分ずっと号泣していました。

誰もが知っているヒット曲が、とんでもないアレンジでドカドカ流れて、そのすべてが信じられないクオリティの高さでハートを刺激してくれます。

 

「歌、すげえな」。

 

歌のチカラは、間違いなくあります。
そして、それはすべての人々にあるんだなと。

落ち込んだり、つらかったり、悲しかったり、落ちるところまで落ちたとき、歌えるかどうか?
少しでも歌えれば、きっと乗り越えられるんだろうな。そんな希望に満ちた作品でした。

 

問答無用の100億点満点!