「自分が被害者になるわけではない。他者が被害者に仕立て上げられるのである。 | 「向こうの景色を見に行こう」

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“ツインレイ”は自分を信じて進みましょう。あなたにはもう、他者の答えは不要なはずです。
「自分を生きる方が面白い」

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あなたの人生を語り合う相手が、あなたにはもういるはずです。

被害者(と思い込みたい相手)に対しての信頼性を失っている状態とも言える。」by私の7人目のツインフレームの彼女

 

世明けのツインレイ 魂の法則性によるツインレイ解説
創造と妄想の違い(ツインレイ、創造主になろうよ企画③)
2024-03-26

創造は何かをうみだすことに成功するが、妄想は何も生み出さない。

創造は対立をうまないが、妄想は対立をうむ。

回避依存は『悲しみの世界を拒絶する』ことに繋がっており、自分の悲しみへの拒絶にある。秩序たる現実を直視することはできるが、人の心を理解することはできないし、自分の心への理解もなかなか難しかったりする。(なぜツインレイの相手が怒ってんのかわからないし、自分が怒っていることも理解できない感情喪失状態)

共依存は『悲しみとの一体化する』ことに繋がっており、自分の悲しみによる判断を行っている。精神を直視することはできるが、現実を理解することはできないし、自分が置かれている現実への理解もなかなか難しい。(ツインレイの相手と距離が置かれている現実を受け入れることが出来ずにエロトマニア化)

どちらも、妄想のなかにおり、自分の悲しみへの拒絶は拒絶した分だけ争いが生じ、悲しみとの一体化は妄想により相手を決めつけることにより争いが生じる。

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闇の刺客による加害妄想と被害妄想

妄想の構造だが、『秩序』と『悲しみ』の対立により、被害者と加害者の存在が必要となる。

段階においての妄想の状態が、自己と他者の概念のとき『自分が被害者』となり『相手が加害者』となる。よくレイプ加害者は自分が被害者となる傾向が強いっていう話があるんだが、自分が加害者である自覚が取れないという客観性の欠落を感じられる。

この客観性とは『秩序』にある。自分が他者へ加害する自覚が持てないために、自分が被害者となってしまうのである。

これもまた『自己と他者』の概念のもとに生じることになる、ひとつ前段階の闇の刺客にある。

また、私たちは善悪二元論に縛られているとき、誰かを悪に仕立て上げなければ自分が悪になってしまうために『自分は被害者である』と主張するケースも多くなるだろう。

そして、その被害者意識が自分のなかに生まれる「たられば(もし、〇〇だったならば)」という思考や、愚痴などに繋がっている。(つまり、被害と加害の関係性は常に、そういった『悪』に繋がっているって話である。)

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つまり、加害者をしたてあげ、被害者をうみだし、この関係性のなかに『自分』という中立性を見つけ出そうとする瞬間がある。これが『妄想主』という概念にある。

簡単に言うと、私の言う「神さまごっこ」である。自分はすべてにおいて理解し、すべてにおいて判断でき、すべてにおいて『正しい』という考え方のもと『被害者』と『加害者』を生み出していく。

それは何の為なのか。理由は、自分の存在意義というものが被害者と加害者により構成されているためである。

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誰かと誰かが争っていなければ、自分の存在が意味をなさないこともある。

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妄想主による加害と被害の構造

妄想主って段階に差し掛かると、自分が被害者になるわけではない。他者が被害者に仕立て上げられるのである。

被害者(と思い込みたい相手)に対しての信頼性を失っている状態とも言える。その存在が自立していると認めることができない心も関係性している。

根源には、被害者(と思い込みたい相手)と自己投影が行われている段階にある。自分が抱えている被害者意識が他者に投影され、その投影が他者への信頼性を失ってしまう。

これを『共感』と多くの人が感じているかもしれないが、これは単純に『思い込み』である。その人を被害者にしたてあげることにより、私たちは自己投影を行い、投影された自分を守りたいと思っているのである。(共感とは知的なものであり「なるほど」の理解にあり、感情的に行われていく共感は『同調』にある。)

これは自分と被害者たる存在の同化にあり、共依存にある。共依存を肯定したいがために、加害者を必要とする構造である。

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ツインレイで理解する妄想主

私たちは、常に被害者となる。その被害意識とは『加害者』を必要とする。

ツインレイたちは『悲しみ』を抱えている。過去に抱えている自分が悲しかった経験を肯定しているとき「ツインレイの相手は悲しんでいる」と思い込む。そのように思い込むことで私たちは人に優しくなれるだろう。

そして、そのとき誰かを『悪』に仕立て上げなければならない。

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私たちは自分の精神構造のなかに『誰かが悲しみを背負う被害者』が存在していなければならない。

しかし、私たちは本当にそうなのか? 本当に、誰かが悲しみを背負う人格が存在しなければならないのか。誰かが被害者にならなければ、私たちは存在することができないのだろうか。

考えてみてほしい。

ツインレイの相手もきっと苦労しているんだろう、自分の為に頑張ってくれているんだ。

ツインレイの相手はきっと悲しい経験をしてきたんだ、ツインレイの相手には傷があるから酷いことをしてきているんだ。

この思考回路そのものが『加害』と『被害』にある。

「自分が傷つけられる理由」を考えている限り、自分は被害者なのである。そして、それは自分に悲しみがあるからこそ、自分が傷つけられているのである。

いわば、自分が傷ついている限りは被害者と加害者の関係性を抜けていくことができない。

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私たちは妄想を繰り広げている。

ツインレイを通し、ツインレイは同じように苦しんでいると思いたくて、ツインレイは同じように悲しんでいると思い込みたくて、そして、ツインレイは悪い存在でなければならなくて、ツインレイはダメな存在でなければならない。

なぜならば、そうでなければ私たち自身の存在意義が見つからないからである。

...

ツインレイによる存在意義とは

ツインレイたちは、自分の存在を他者のなかに見つけようとし続けている。

いいや、ほとんどの人間が自分の存在を他者のなかにしか見つけることができない。そんな世界に存在している。

そして、自分の存在を他者のなかに見つけたとき、私たちは『存在』を感じることができる。

これが『倫理的実存』の段階にあり、私たちの存在意義なのである。

しかし、私たちは倫理的実存を極めぬくとき、必ず倫理による破壊を受け取る。ニーチェは『竜』として表現したが、私たちはどうにもこうにも大きな間違いを犯してしまったのである。

それは自分の悲しみを癒したいがゆえに、それは誰かの悲しみを癒すために、私たちをより強く優しい存在へと築き上げたと同時に、私たち自身は常に対立を生み出し続けてきたことである。

私たちは、存在意義を他者のなかにしか見つけることができない段階を抜け、次には『自分のなかに存在意義を見つける』ことが出来るようになる。

私たちは、求められるようになる。私たちが私たち自身を求めているように、私たちは他者に求められるようになる。

それは、私たち自身が私たちを求めたとき呼び覚まされるような世界でもある。



私たちは、自分の存在を問いてきた。しかし、それは悲しみを自分が抱えていることに気づくことである。

そして、その悲しみを解明していくとき、私たちは真実なる欲求に気づく。

「自分で自分を求める欲求」である。自分の存在を求め続ける欲求は、私たち自身を常に創造へ導くことだろう。

 

 

うーん(゜゜)...。
ぶっちゃけ私は感情でこなす女なので、こう言うそれこそ理論的な話はできません。

まぁ。こう言う話の方が理解できる人はいるんじゃないかな。とは思います。

 

 

しかし、なんでみんな思い込みの思い込みを現実化させようとて話を拗らせに行くんでしょうね?

 

「相手=自分への信頼を失っている」ということなんでしょうけどね。

 

その状態で自分が人を救えると思い込んでいる。

 

 

他者を被害者に仕立て上げてまで誰かを救いたいって病的ですよね。

 

どうしてツインレイで悲劇のヒロインを気取りたがるのか。

 

もうちょっと“己を”振り返って欲しいものです。

 

 
***
 
ちなみに、救世主症候群は問題になるようです。

 

 

 

当たり前だよ。って話なんですけどね。

 

自分の当たり前と他人の当たり前ってずいぶん違うんですね。

 

話としては知っていましたよ。

 

でも、なんて言うか。

 

「人として」のそこから違うんですね。

 

まぁ、私が正しいかって違いますよ。

 

 

でも、ツインレイを追いかけて本当に本当に考えてしまいます。

 

自分と、他者との違いを。

 

 

私は私なりに生きてきたそれを、肯定する機会に恵まれているようです。

 

 

***

 
「恋は盲目」とは言いますが、ツインレイ業界の業界人は「無条件の愛」に胡坐をかきすぎだと思います。