主張したい貴女は立ち止まって一度考えましょう。
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・チェイサーはツインレイの相手に振られたんだ(彼が現実には傍にいない)と言う“事実”を受け入れて、ランナー・チェイサー(追う・追われる)と言う善悪二元論を脱して先に進むのです。
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・「ツインレイの世界線の選択ルートマップ」…by私の7人目のツインフレームの彼女
私たちは最終的に『ツインレイ』を目指している。だけど、もしツインレイに至ることがなかったとしても、ツインレイの相手がツインフレームの座席に生まれていたりもする。
けっきょく私たちは一切合切『ツインレイとは必ず結ばれる』という世界線を持っているのではないかっていうことだ。
私たちは『ツインレイにするか』『ツインフレームにするか』のどちらかということになっているが、ツインフレームと離別すればツインレイしかいないし、ツインレイとうまくいかなければツインフレームとなる。
ツインフレームは、ツインレイの擬態者となっている。『自身の異性性』の体現者っていうこと。
最終的に、自分の性別が『両性』にっていく経緯がツインレイの道にある。
しかし、自身の性別が右か左かに偏るとき、私たちはツインフレームを選ぶってことでよいのではないだろうか。
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ツインレイの相手と、今生で『ツインレイとして結ばれるのか』『ツインフレームとして結ばれるのか』については相談してきているかと思う。
三元性へ到達することは『ツインレイへの道』が拓かれていることになる。
しかし、三元性ではなく、二元性へとどまってしまうことも多い。それは善悪二元論であり、心の理解が乏しいことにある。
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二元性へとどまってしまうとは、善悪二元論でもあるが、これは『精神』である。正しい心を持っているともいえる。そして正論的であり、自身のなかに『あれをしてはならない』という考え方も生じる。
そのとき、私たちは自身へ『禁止』を行い、他者へも『禁止』を行うことになる。
なぜ私たちは、道徳精神を中心にし、考え方を展開しているのかと言えば、それは『神に縛られているから』である。神に縛られている限り私たちは一人前とは認識されないし、一人前でないならば、私たちは神の道徳に従い、道徳により生じる善悪を中心的に試走せねばならない。
そういった縛りを脱していくことがツインレイの三元性にある。
どの段階に達するツインレイなのかにより、どのベクトルにまで三元的な理解をすることができるのかは別である。
それが『人生的なベクトルの三元性』なのか、『魂的なベクトルの三元性』なのかはわからない。
しかし、私たちは『善と悪』という考え方のどちらをも肯定し、そして否定していく経緯で『すべてを背負う』ことを続けていく。背負った結果、私たちは『三元性』へと向かうことになる。
この経緯を経て、私たちはようやく『ツインレイとツインレイらしい関わり合い』をすることができる。
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ツインレイを受け止め、本来ならば“価値がない”と思ってしまいがちな世界の彼らを受け入れていくことになります」
カルハのツインレイに向けた、
「自分と向き合いたくない」救済講座
~その57~
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