アダルトチルドレンの親もアダルトチルドレン | 「向こうの景色を見に行こう」

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ツインレイ(魂の片割れ)は「己の真実」を生きるのです。それがどう言うことなのか、自分で考えられるはずです。

己の人生に責任を持って、自分と向き合って、「0」から進んでいける覚悟を持てるのがツインレイです。
それは“新しい”創造のはじまりです。

「戦してんのに精神的なものに重きを置いて子供を教育してたら国を守れない」

を述べる私の7人目のツインフレームの彼女の話。

 

 

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私は「毒親」と言う表現は嫌いです。
 
それについて思うことはいろいろあるのですが、この問題について私の7人目のツインフレームの彼女が述べていた記事から抜粋して引用します。
 

 

戦してんのに精神的なものに重きを置いて子供を教育してたら、お国を守れないっしょ。

だからそういう子供が育つと国が守られるってことだから従来はこれでよかったけど、これからは違う。別の国とも共存したり、繋がったりして『違う異質的なものが繋がる世界』へと切り替わっていくのに、違う異質的なもののなかにも共通点を見つけていって繋がっていかなきゃいけない。

肌の色が違うとかね、そういう『目に見える部分』によって戦が起こってもきていた。だけどこれからはそういう差別的なものを取り除いていく必要性があり、じゃあ、どこに共通点を見つけ、どこでつながりを持つべきかと考えれば、それは人類共通の『精神』にあるんだ。

人類みんな成長しつつあるんだよ。過去の過ちを何度も繰り返しながら、そのなかで折り合いをつけていくって時期に差し掛かっている。

だから親と子の時代が違う。単純に今時代の切り替えの時期に生まれたことが運が悪かったみたいなだけで、特に現象においておかしな点はない。そしてアダルトチルドレンたちって肉体じゃない、精神を重要視することを目的として生まれてきている(時代の流れに乗っかっている)。

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アダルトチルドレンは『精神的な親がない』状態となっている。ので、アダルトチルドレンは自分で自分の精神を育てていかなければならない。

それは旧来の世代を支えていた『肉体的な親』が理解できない『精神的な親』を乗り越えていくことでもある。

肉体的な親はアダルトチルドレンを理解できない。これは「精神的なことに重きをおかない気質」として育てられているからこそ、理解が出来ないのである。

で、私たちはこの「私たちを理解できない親を乗り越えること」が重要視される。

つまり、私たちは親に一生かけても理解されることがないのが大前提にある。それでも尚「受け入れてもらえない自分を肯定できるのか」という自己肯定感も必要になってくる。

私たちは根源的に『欲求』がある。そのうちのひとつが『承認欲求』だ。

アダルトチルドレンの多くが「親に認められたい」という欲求を抱えて生きている。しかも「精神的に親に認められたい」と、精神的なことに重きを置いた経験がない存在に対して認めてほしいと思っている。

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根源的には『共感性』なのだが、共感のレベルみたいなものが違いが生じているように思う。

そして、みえないものや空間的だったり、親へ優しさなどをアダルトチルドレンは持ってはいるが、親はそれを自覚しない。自覚しないから共感することはできない。

そもそもそのサイクルそのものを理解することも出来ない。理解できないものを理解しろと言っても時間の無駄である。

私はこの記事を書いている理由はひとつにある。

「親に共感してもらおうとしても、親そのものに『共感』という概念が存在していないんだな。」ということを理解したから、親に共感してもらうんじゃなくて、自分で自分に共感し、自分のなかに親を生み出していかなければ、私が私が持たないってことである。

アダルトチルドレンが依存しているのは『親への共感を求めている』ことに繋がっているように思う。この親への共感を諦めたとき、私たちは「自立」へと向かっていく。

なんなら私たちこそが親へ共感していかなければならないのである。

もし、私たちのなかに「親も傷ついているんだな」とか「親も不安なんだな」とか感じられるようになったら、精神的自立ができてきた証にある。

私たちが知っている大人よりも『大人』になれたのである。

親を『親』ではなく「ひとりの存在」として自覚できたとき、私たちは精神的自立を果たしたことに繋がっていく。

私たちは親に与えられるはずもないものを永遠に求め続けているからアダルトチルドレンなのである。それが『依存』にある。

 

 
だ、そうです。