ツインレイに出会った人は危機にあって(または何かが崩壊して)欲しいと願う人は一定数いるようです。 | 「向こうの景色を見に行こう」

「向こうの景色を見に行こう」

“ツインレイ”は自分を信じて進みましょう。あなたにはもう、他者の答えは不要なはずです。
「自分を生きる方が面白い」

それは未知です。 誰も知りません。 あなただけが知っている。

あなたの人生を語り合う相手が、あなたにはもういるはずです。

己の危機的状況は、まだまだ乗り越えられないのでしょう。


と言うか、
「己に都合の良い事だけが起こることが幸せで素晴らしい」と考えるその思考の偏りこそが、“エゴ”らしいですよ。

 

「己に都合の良い事が起きるのが幸せで素晴らしいと考えるその偏りが、“エゴ”」と、言う話もあるみたいです。

そうやって、

 自分に都合のいい状態(ポジティブ、快、喜・楽)だけ欲しい。
 自分が感じたくない感情(ネガティブ、不快、怒・悲)は避けたい。

とでも言うような「思考の偏りそのもの」が「エゴ」と言うことですかね?

 

 

***

 

相手は、あなたの本当の願いを叶えにきます。
それは、それこそ、魂の願いとでも言うような。
本当に、忘れてしまった思いでもあります。

もしかしたらそれは、願いになる前段階なのかもしれません。
「ある」と言う存在そのもの。
 

「私」


なのかもしれません。


***

願いとしては、普段、まるで意識していなかったり。
むしろ、意識しないようにしていたり。
すっかりと、願ったことを忘れたようなものだったりもします。
もう、無意識なのです。

でも、それは私なのです。
私が願ったのです。

そして、己が「こうあれば叶った状態」と思っていた理想を超えてきます。

「このぐらいでいいだろう」と言う妥協は一切通用しないのです。


ある意味では叶い続けているんだ。と、そんな状態であるようにも思います。
時代は変化し続けるからです。
そして、常にそんな状態であったようにも思います。
私は成長しているからです。

だから、それを願った時に、こうなるはず。と、思っていたそれではなかったりします。
だけど叶っているのです。

それは完璧なのだ。と、なんだか信じられないほどです。

目の前のそれがそうなのだ、と受け入れるのは大変でした。
でも、それもやっぱり私の願いなのです。
最初から、とでも言うような。


意識と無意識は、繋がっているのです。
私は、そこに狭間を見ていました。

 

 

 

でも、それは繋がっているのです。
1つです。


私は、何かのシナリオ通りに進まないといけないのか。と思うと、操られているようで嫌でもありました。
なんだか、納得がいかないのです。
自由ではないような気持ちになるのです。
だけどそれしかないようでもありました。
それだけがしたいかのようでもありました。

突き詰めて行って、私は、失われないと知りました。
やっぱり、私は私なのです。


私は、すべてがあって、すべてがないような気持ちになりました。

0なのか、1なのか、無限なのか。

2人で1つであるのだろう。ともそんな気持ちで。


***

だから貴方はずっと、ずっとそこにいたのです。
ずっと、ずっと、私は貴方を感じて生きてきたのです。
まぁ、それに今のように気がつけていたか。と言うと違います。
なんとなく。何かを。

そのなんとなくを受け入れることも、受け入れないこともありました。
でも、なんとなくを受け入れた方がなんとくなくうまく行くようなことが増えて行って。
私はなんとくなくを信じてもいいのかな? と思えるようになって。

だんだん、それが確信に変わって行って。

私は、私には神様が付いているのかもしれない。と、そんな己惚れたくなるような気持ちになることもありました。
じゃぁ、きっと。
なんとかなるのだろう。と、そんな気持ちで。

だから貴方は私を、ずっと導いていたのだろうと思います。
ずっと、傍に。
いてくれたのだろうと思います。


・身体が離れていることを分離とは言わない
・私たちは魂で繋がっている
・ワンネスの意識に、分離は存在しない

私はそれを、信じられるのです。


だからもしかしたら、最初から魂の望み通り生きていれば。
己が本来の願いとは違う方向にいる。と、自分に気がつく必要があるような危機や崩壊は訪れなくてもいいのかもしれません。

だけどそこに「愛」があると感じられるのは、どうしてなのでしょうか?
望み通りに生きていないと感じる事すら、望み通りなのでしょうか?


私の中には、善も悪も、喜怒哀楽もあります。

私はそれが嬉しいのです。