『オッペンハイマー』分解・再構成される演技。 | でびノート☆彡

でびノート☆彡

映画監督/演技講師 小林でび の「演技」に関するブログです。

 

『オッペンハイマー』いや~大変な映画でしたねw。
バラバラな時系列がグチャグチャに入り組んでミックスされていて、登場人物も多くて人物紹介なしにどんどん出てくるので、3回くらい観ないとイミわからないよ!と皆に脅されて観に行ったんですが・・・意外とすんなり楽しめました。
 
これは時系列がグチャグチャでも「人物の情感」がちゃんと繋がっているからか・・・もしくは『メメント』から『TENET』まで、時系列ぐちゃぐちゃな映画をたっぷり見せられまくりつつ、「時系列を頭で整理しようとするな。感じろ!」という謎の特訓をノーラン監督から受け続けたからかも(笑)
 
そうなんですよ。この映画『オッペンハイマー』はむしろ時系列を気にせずにそのままぼんやり見ていると、すんなり物語の世界に深く入ってゆけますw。 どの時間軸の彼も同時進行の存在として把握してしまう・・・ふと映画『メッセージ』に出てくる宇宙人の世界の把握のしかたを思い出しましたがw。
 
そう。この映画は原爆が落ちるまでの物語を描く映画ではなく、オッペンハイマーという人間を描く映画で。 行ったり来たりの時系列の出来事を、彼のエモーションで繋ぐことによって、「オッペンハイマーという人物の本質」が際立って見えてくるという、素晴らしい演出だったと思います。ノーラン監督の『メメント』から一貫した作家性ですよね。

画像
 
画像
 

人物の顔のアップをIMAX撮影!

そして映画『オッペンハイマー』は意外にも延々と会話劇でした。これ、IMAXによる原爆のスペクタクルなシーンを期待してたお客さんはガッカリしてたみたいですね。
 
でも何なんでしょう、会話シーンのあの画面から人物がドーン!と飛び出してくるような感覚は。観客の目の前で人物たちが喋ったり動いたりしているような生々しさがありました。
セリフを聴かせるためでもなく、感情を見せるためでもなく、人物像を感じさせるために存在するような顔のアップの長回し。
 
撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマはインタビューでこう語っています。
「IMAXは雄大な景色を撮るのに適した規格ですが、これをアップショットにも使ってみたかった。 人の顔は風景のようなものです。ひじょうに入り組んでいて奥深さがある・・・どうしたらIMAXカメラで人物のアップを撮れるかを試行錯誤しました。」
 
そう、この映画『オッペンハイマー』は、オッペンハイマーはじめ人物たちが「なにを感じているか」のディテールが、画面に映っている出来事のほとんどを占めています。人物たちの目元や頬の筋肉の微細な緊張や緩和が、シーンのエモーションのメインに据えられているんです。
 
じつは人間の表情って2系統あるのですが、それは「意図してつくった表情」と「意図せず出てしまう表情」です。
前者は「コミュニケーション」のために作られる大きな表情で、後者は出来事に対してふと「反応」して出てしまう微細な表情で、こちらは刻一刻と変化を続けます。この2つが混ざり合って人間の表情は作られています。
前者の大きな表情はその人物が相手に伝えたい印象であって、本心ではありません。本心は後者の微細な反応(表情筋の緊張と緩和)の中にあって、その人物が「今まさにその瞬間に感じていること」そのものが現れています。
 
この2つの表情を同時進行する演技、キリアン・マーフィーもよかったですが、ストローズを演じたロバート・ダウニー・Jr.の芝居も素晴らしかったですよね。 彼が人々に印象付けたい「寛大で才能あふれる人物像」を大きな表情で、そして実際の「神経質でコンプレックスの塊の人物像」を微細な表情の変化で・・・この両方が混然一体となった芝居はまさに名演だったと思います。
 
それらをホイテマ撮影監督がIMAXでかつてない詳細さで撮影し・・・これがこの映画に流れるエモーションを支えているのです。すごい。

画像
 
画像
 
画像
 
画像
 

キュビズムで人物を描く。

映画の序盤に、オッペンハイマーがピカソの絵『手を組んだ座る女』を見ているシーンがあります。
キュビズムで描かれた女性の顔と、オッペンハイマーの顔が、まるで会話シーンのように切り返されているのですが、ふとオッペンハイマーの顔もゲシュタルト崩壊を起こして各パーツがバラバラに見えてきたんですよねw。
 
おそらくこのシーンでピカソの絵をドーン!と出すのには様々な高尚な意味があるのでしょうけれど、そのあたりは他の解説の皆さんにお任せするとしてw。
ボクはこのシーンでノーラン監督に「今回はキュビズムで行きますからね!」と宣言されたように感じたんですよね。
 
ピカソが女性の顔や表情を様々な視点からとらえて、それらをバラバラに分解して再構成することで、女性をより立体的に描写しようとしたように、
映画『オッペンハイマー』では科学者ロバート・オッペンハイマーの人生を様々な視点からとらえて、それらをバラバラに分解して再構成して、よりリアルに彼の人生を観客に体感させようとしています。
だから時系列がバラバラで、あっちとこっちのバラバラなエモーションが繋がって表現されていたりするわけです。
 
そしてまた「とにかくオッペンハイマーの表情に注意して観てください!」という宣言でもあったように思います。
「大きな表情」と「微細な反応」という複数の表情がIMAX撮影によって混然一体となって映されているので、そこからロバート・オッペンハイマーが原爆開発の過程の中で何を考え、何を感じていたのかを感じ取ってくださいと。
 
そして次のグラスを壁に投げて割れるさまを見ているオッペンハイマーのシーンに突入するのですが・・・割れて飛び散るグラス、オッペンハイマーはそこに何を見ていたのか、何を感じていたのか・・・このとき我々はスッとオッペンハイマーの頭の中に入ってゆけたような気がしたんですよ。ああ!そういうことかと。
オッペンハイマーは自然の法則性を見出そうと、詳細に詳細に世界を観察し続けていたのだ。で、最終的に核分裂・核融合まで辿り着いてしまったのだなと。
 
ピカソからここまでのシーン、本当に素晴らしかったと思います。

画像
 

最悪の連鎖反応。

以下はネタバレになるのかな。いや史実だから違うよね(笑)。
原爆を落とした時に爆発が起こるだけでなく、「連鎖反応」によって大気が燃えて世界中が焼き尽くされてしまうのではないか?というオッペンハイマーの心配。
彼らはこの危険性が0%でないのに、トリニティ実験で原爆を爆発させてしまうわけですよね。なんてヤツらだ!
 
結果的にその「最悪の連鎖反応」は起こらず地球は焼き尽くされなかったのですが、この実験成功のあとオッペンハイマーは軍に原爆を取り上げられて、いつ投下するのかも知らされないまま蚊帳の外に置かれます。
 
そして広島・長崎に原爆は投下され、それから核兵器は世界中の国々でどんどん製造されるようになり・・・現在に至るわけですが、オッペンハイマーはこの状況を見て「ああ、最悪の連鎖反応は起きてしまった」と思うわけです。自然の法則によってではなく、人間たちの手によって。
オッペンハイマーはそのことをアインシュタインと深く共有してこの映画は終わります。例の湖畔で。
 
そしてその時に核の連鎖反応によって焼けつくされてゆく地球の映像が挿入されるんですが・・・この映像が本当に美しいんですよね。
こんなに恐ろしい出来事をこんなに美しく描写するなんて・・・そしてオッペンハイマーが目をつむる。
ああ、なんて意地悪な作家なんでしょうノーラン監督は。
そう、核をこれ以上拡散させてはいけないのです。明確なメッセージがあの燃えつくされる地球の映像に込められていたと思います。

画像
 
画像
 
画像
 
画像
 

分解・再構成された演技。

しかし最後に演技の話に戻ると、どのシーンもコマ切れでしたよね!
普通の映画だったら絶対あるような説明的な描写も一切なく、唐突に始まって必要な描写だけ演じて、すぐにまた別の時系列に飛んでゆく。
 
どのシーンも素晴らしかったのですが、このコマ切れのシーン、正直俳優はどうやって気持ちを作って演じたのでしょうw。そのシーンの前後に何が起きていたのか分かるようなサブ脚本があったんですかねー。そうでないとあのディテールの充実した短い芝居を演じるのは至難の業だと思うのですがw。
 
でもこの映画の場合、このシーンと次のまったく別の時系列のシーンとのエモーションが繋がっていることが重要なのだから・・・やはり完成した映画の通りに、コマ切れの短いシーンだけを演じたんですかね。
調べてもそのあたりが出てこないんですよねー。未使用になったシーンは一切無いという話だし・・・いや~謎です。
 
演技もキュビズムですよね。俳優たちは分解されたバラバラな芝居を演じて、それが再構成されてドラマになってゆく・・・。
いや~『オッペンハイマー』、大変な映画でした(笑)
 
小林でび <でびノート☆彡>