稲葉想 | リフレクションペーパー

稲葉想

想です。W5211013E

今回のプレゼンは、リサーチを重ねた中で出てきた疑問を、形にしてぶつけようとしてできたものなのだが、どうも僕らの中には、「政府」=「国民に何かを隠している」といった先入観があり、その疑問は先入観が前提となって成り立ったものであったということを、上田様の話を聞いて、やっと分かった。表現は変だが、“モヤモヤがとれた”という感じを受けた。

その疑問が解消されたのは、上田様の話から、政府というもののあり方に少しの理解を得られたからかもしれない。それまでの僕は、政府というものを何か遠い存在のように感じていて、理解しようともしていなかった。今回のように、政府のしていることに関してリサーチをする機会があったならあったで、疑いを持った目でしか見ようとしない。要するに、政府を怖がっていたのだ。政府のあり方が分からないから、得体の知れないもののように捉えているから、怖かった。

しかし、その得体の知れないはずの政府からこの中央大学に来ていただいた上田様は、非常に共感できる話をしてくださった。共感できるわけがない方から、共感できる話をいただけたのだ。少しの驚きと、大きな感動に襲われたみたいだった。陳腐な表現だと指摘されることは予想しているけれど、この表現を変えたくはない。本当に驚いたし、本当に感動を受けたから。政府というものも、学校のように、会社のように、人と人との集まりなのだということが理解できた。当たり前のことかもしれないけれど、政府でも日常のように挨拶があって、話し合いがあって、会合があって、発表会があって、人と人とが接し合っている。それは外国の政府にも言えて、また、日本の政府と外国の政府との関係にも同じく言えることなのだ。

僕たちのプレゼンテーションは、日本政府のODA額の増加と、効率性の向上の方針を、まるでincompatibleなもののように扱っていて、その前提の薄っぺらさを上田様に見抜かれてしまったわけだが、僕たちがその二つを相反するものと感じたのも、“モヤモヤがとれた”のも、つまりは、その「政府も人と人との集まりなのである」という事実が起因していると分かった。政府の掲げることには、どこか曖昧な表現が多くて、何をしているのか、何をしたいのかが見えてこない。ODA額の増加はどうするのか。効率性の向上は何のためなのか。責任とは何なのか。政府開発援助は援助といえるのか。そのような“モヤモヤ”が、政府を怖く感じさせていた。しかし、それらはすべて、人間同士の関係である外交関係で生まれるものであって、人間同士だからこそ生まれる信頼、嫌悪、尊敬など、一言では言い表せないような、そしてだからこそ曖昧に思える「人間性」が露呈されているのであり、その上に政府が成り立っているということを、上田様にやっと諭していただけた。

このように、上田様の話で、頭の中で引っかかっていた部分が急にとれ、理解を得られたからこそ、上田様の前で、このことが分かっていなく漠然と政府というものを捉えたままプレゼンテーションを行ってしまったのが、今思えばすごく恥ずかしい。悔しく思う。この反省を次の班に活かしてもらえるよう、キャパビルしていくことが、今僕たちODA班の、そして班をまとめきれないで前倒しな姿勢をとれずモモに迷惑をかけさせてしまった僕のしていくべきことだと思う。