真我探究 | 怒りや恐怖を癒して、本当の自分に目覚め、自由で楽しく豊かな現実を創造する ヒーリングサロン ディヴァイン・ロータス 長崎県 大村市

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シュリー・ラマナは時折、真理の探求者には3つの段階があると指摘した。
最も高等なものは、グルから真の本性について語られるやいなや真我を実現する。
第2段階のものは、真我の自覚が確立するまでそれについてしばらく熟考する必要がある。
第3段階のものは、それほど幸運ではない。なぜなら彼らはたいてい真我の実現を達成するまでに長い歳月をかけた集中的な霊的修練が必要だからだ。
 
 
上位2つの段階のもののために、シュリー・ラマナは真我だけが存在し、それは我々が自分自身について抱いている誤った概念に、単に注意を払うのを止めることによって、直接、意識的に体験されると説いた。
 
 
誤った認識の主要なものは、真我が身体と心に限定されているという概念にある。
自分を特定の個人であり、特定の身体の中に生きていると想像するのをやめるやいなや、誤った観念の構造全体は崩れ去り、意識的な、永遠なる真我にとって代わる。
 
 
この教えの段階では、努力や修練といった問題は起こらない。
必要とされるのは、真我とは達成されるべき1つの目的ではないという理解だけである。
真我ではないものに関するすべての誤った観念が捨て去られたとき、ただ覚醒だけが存在するのだ。
 
 
 
 
 
想念をその価値の順に並べてみると、「私」という想念が最も重要だということがわかる。
人格という概念もまた、その他すべての想念の根や幹である。
それぞれの観念や想念は誰かの想念としてのみ起こり、自我から独立して存在することはない。
 
 
この「私」はどこから沸き起こるのだろうか?
内面を深く探りなさい。
そうすれば「私」は消え去る。
これが智恵のなす業である。
心がたゆまずその本性を調べるとき、心といったものは存在しないことが明らかになる。
これこそがすべての人にとって正道である。
 
 
心とは単なる想念に過ぎない。
すべての想念の中では「私」という想念がその根本にある。
それゆえ心とは「私」という想念以外の何ものでもないのだ。
 
 
「私」という想念の誕生が人の誕生である。
死とはその個人が死ぬことである。
「私」という想念が立ち現れたあと、身体との誤った同一化が起こる。
「私」という想念を取り除きなさい。
「私」が生き残っている限り、そこには苦しみがある。
「私」が存在をやめれば苦しみもない。
 
 
Q その通りです。しかし、「私」という想念に専心しようとすると、他の想念が起こって邪魔をするのです。
 
 
それらが誰の想念なのかを見れば、それらは消え去るだろう。
それらはただ「私」という想念の中にだけその根を持っている。
その「私」をとらえなさい。
そうすれば他の想念は消え去るだろう。
 
 
 
 
 
Q 初心者はどのようにこの探究を始めればよいでしょうか?
 
 
心はただ、「私は誰か?」という探究によってのみ沈黙する。
「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えている薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」という想念自体も滅ぼされてしまうだろう。
 
 
他の想念が現れた時は、考えることを続けず、「この想念は誰にとって現れたのか?」と尋ねるべきである。
いかに多くの想念が現れようと構いはしない。
想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく「これは、誰にとって現れたのか?」と問えば、それは「私にとって」であることがわかるだろう。
 
 
その時、「私は誰か?」と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、現れた想念も静かになるだろう。
このように繰り返し実践することによって、心は源に留まる術を見いだすだろう。
 
 
 
ラマナ・マハルシ
『あるがままに』
より抜粋